December 27, 2008

『男の怒りをぶちまけろ』

『男の怒りをぶちまけろ』(1960年)を観た。松尾昭典監督。出演は赤木圭一郎、浅丘ルリ子、二谷英明、その他。新聞記者の青年が、ふとしたきっかけで巨大ダイヤをめぐるギャングの陰謀事件に巻きこまれ、危険をすり抜けながら事件の真相に迫ってゆくアクション活劇。

ヒーローたる正義感あふれる好青年、ギャング団とその背後の黒幕、敵とも味方ともつかぬ両義的な女、これまたギャングと通じた危険な「事件屋」(新聞ダネになる事件に首を突っ込んで金を儲ける仕事)の男、ヒロインたる可憐な娘、等々、定型的なキャラクターが勢ぞろい。

巨大ダイヤを中心に、ギャング団同士が抗争を繰り広げるなか、主人公は自分を殺そうとした相手を探し出そうとし、事件屋の男は、混乱に乗じて当のダイヤをかすめとろうとする。事件の犠牲者となったトラック運転手の妹は、兄が殺された真相を探ろうと主人公に頼り、黒幕の女は、年老いた黒幕の一方的な愛玩に嫌気がさし、ついどちらつかずの行動をとってしまう。

いきなりハイジャックから始まるストーリーそのものは馬鹿馬鹿しく、真面目にとるほうが損をするくらいだが、この単純な物語の構造そのものは、なかなかバカにできない事柄を表現している。

最後にギャング同士の壮絶な殺しあいが展開され、事件屋が死に、黒幕が死んでしまったあとで、駆けつけた警官に主人公は「これがすべての原因です」とダイヤを差し出す。だが考えてみると、むしろこの熱血正義漢たる新聞記者の存在こそが、すべての原因だったのではないか。

この男が事件に紛れ込みさえしなければ、トラック運転手は「飲酒運転による事故死」として完全な偽装が成立し、片方のギャング団によるダイヤ強奪も相手方のギャング団に露見せず、すべては「うまくいった」はずなのである。

下手に正義感をもって事件の真相を探ろうとした結果、多数のギャング団が抗争で死亡し、黒幕自身とその女、また事件屋も死んでしまうこととなった。最終的に正義感とともに生き残ったのは、新聞記者の青年と、犠牲者の妹のカップルだけである――いや正確に言えば、ダイヤもまた生き残ったのであった。

青年の側からみれば、すべての原因はダイヤだったのであり、ギャング団の側からみれば青年の正義感こそがすべての原因なのであった。ダイヤを中心とする馬鹿げた殺しあいなのか、それとも正義感に引きずり回されたあげくの馬鹿げた殺しあいなのか。

これはじつのところ決定不能なのであり、それがまさに裏表の関係であることを正確無比なかたちで表現している点で、単純きわまりないこの映画の物語構造は、まことに傑出しているといわなければならない。

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December 25, 2008

『祇園囃子』

『祇園囃子』(1953年)を観た。溝口健二監督。出演は木暮実千代、若尾文子ほか。

貧しい父親を離れて、舞妓を志望して新しく茶屋に入ってきた少女に、姉のように慕われる芸妓の女が、その若気あふれる快活さに親のような眼差しを注ぎながら、一人前になるよう茶屋の世界の手ほどきをしていた。あるとき旦那を買って出た得意客の無理な要求に、少女が(文字通り)噛みついて抵抗したことにより、女は窮地に陥ってしまうことになる。

得意客の会社専務が接待しようとする役所の男に身を任せるならば、少女のことも許そうというのだが、女は、好きでもない男にそんなことをするわけにいかない、と、なかなか首を縦に振らなかったところ、業を煮やした女将が茶屋のネットワークを利用して、女に仕事が回らないようにしてしまうのである。

我が身を振り返りつつ、少女のまっすぐな心情は守ってあげたい。だが仕事を奪われてしまっては生きてゆくこともできない。このジレンマに窮した女は、ついに役所の男のもとに出かけることになるのだが、少女は、そうして得たお金を汚いものとして女をなじる。口論のあとで、しかし二人は仲直りをし、祇園祭の忙しい茶屋周りに出かけてゆく――。

男女平等という戦後民主主義的理念をまっすぐに掲げて恐れない少女と、そうした少女には見えていない茶屋や現実世界のネットワークを知りつつも、なおそれを盾にとって少女の幼さを上から断罪することには抵抗を感じてしまう女との、たんなる保護者と被保護者との関係にはとどまらない、女同士の共犯者的な関係性がうまく描かれている。

作品のなかで、男は単純なる動物として登場する。金と権力と女性をすべてわが手にしようとする動物である。得意客の専務はいわば狸であり、役所の男は蛇である。無闇に襲いかかってくる狸や、執拗に絡みついてくる蛇を、正面から叩くのではなく、なかば受け身の状態で引き受けつつ、うまく勢いを横にそらしてかわしてゆく。

女の身体は長年のそうした訓練に鍛えられ、まるで合気道の達人のような身のこなしを会得している。少女の溌剌とした身体はといえば、まだ訓練が足らず、どうしても正面から相手を叩こうとしてしまう。だがそうした飛び跳ねがちな身体と、落ち着いた滑らかな身体とが共犯者的にチームを組むとき、無粋な動物どもには容易に組み伏せられない、力強い可能性にみちた結合体がそこに生み出されることになる。

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October 20, 2008

『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』

『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(2007年)を観た。出演は佐藤江梨子、永作博美、佐津川愛美、永瀬正敏ほか。吉田大八監督。

女優を目指して東京に出ていった姉が帰ってきて、気弱な妹を理不尽にいじめるのだが、妹は妹で、過去に姉をネタにホラー漫画を書いて雑誌に掲載され、姉に心の傷を与えたという負い目から、姉に反抗することもできず、ただただ忍従する。腹違いの兄もまた、姉だけを愛するという誓いを過去に立ててしまったため、あまり姉に強い態度を取ることができないでいる。

そうした傍目には姉への過度な甘やかしとみえる不可解な状況を、東京からやってきた苦労人の兄嫁が戸惑いながら眺めているなかで、姉が東京に出した映画監督へのファンレターをめぐる顛末、姉による妹いじめのエスカレーション、東京から追ってきた借金取りへの対処、などなどの出来事が展開し、ついには妹による大逆転の結末を迎えるというのが話の流れ。

すべてを他人と運のせいにし、自分の非や素質のなさをまったく認めない姉の、爽快なまでの傲慢と理不尽さが、田舎を背景に圧倒的な違和的存在感をみせる、手足の長いスレンダーな容姿と妙に調和している。手足の先まで十全に統制できず、みずからを持て余しているようなサトエリの気怠げな身体が、その放恣さと裏腹にある苛立ちを、そのまま物的に表示しているようなのだ。

それと対照的なのが、小柄でありつつキビキビと動く兄嫁の身体である。夫の乱暴に耐え、姉の気まぐれな要求に応じ、周囲に気をめぐらして、求められた仕事を可能なかぎり効率よくこなすことで、自分の居場所をようやく確保できると信じる兄嫁は、つねに背筋を伸ばして姿勢よく、さっと立ち上がり、座り、用事に走ってゆく。

兄のほうは痩せ形ながら動作が緩慢なのだが、そこには、一家を背負い、過去を背負い、運命を背負っている男の寡黙な屈託が、あますところなく体現されている。

そしてマンガを唯一の趣味とする妹だが、姉の目を避けるよう、首をすくめ、肩をすぼめ、背を丸くして机にかがみ込む姿は、姉の非道な仕打ちに耐えながらも、そこに避けがたい魅力を認めて、悪いと思いつつもついマンガに仕立ててしまう、暗い欲望を抱え込んで育てる親鳥のようでもある。

というわけでこの映画は、統制できない放恣な身体、仕事をこなす機敏な身体、重荷を負う緩慢な身体、そして暗い欲望を抱える縮んだ身体、という、四つの身体が互いに重なり、衝突し、触れあい、共振し、あるいはすれ違う物語として読むことができる。

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August 12, 2008

『日本のいちばん長い日』

『日本のいちばん長い日』(1967年)を観た。岡本喜八監督。出演は笠智衆、三船敏郎、黒沢年男など。御前会議でのポツダム宣言受諾の決定から、終戦の詔をラジオ放送するまでの一日半に起きた、詔の文案検討、玉音の録音、近衛師団の決起、陸軍大臣の切腹、等々の一連の出来事をめぐるドキュメンタリー調ドラマ。

主題はいろいろと読み込めるだろうけれども、そのひとつに、歴史的決定というものが、偶然的なバランスのもとで、危うい均衡点として成立するにすぎない、という主題がある。

ものごとが決定されるということは瞬間的な出来事ではありえず、その前には交渉と沈黙と疲労の長々しいプロセスがあり、またひとたび決定されたのちも、すぐに安心と平穏と回復の時間が訪れるわけではなく、一方では煩雑な儀式と手続きがあり、他方では決定の事実を引き延ばし、あるいは暴力的に覆そうとする動きが絶えず生じてくる。

そのようにして結局のところ、何かが決定されたということは、大小の偶然を含むすべての因果連関が収束して、長い時間が経過したあとの事後的な視点から、結果論として描き出されるほかはないのである。

なされるべき決定の重大性と、そのプロセスの卑小さとのコントラストが強く描き出される。詔書の文言をめぐっては、陸軍の面子をかけて「戦局必ずしも好転せず」としたい陸軍大臣と、それを欺瞞だとする海軍が互いに一歩も引かずに議論が膠着する。文書ができたあとも、それを清書して、御名御璽を得て、さらに内閣全員が署名をするという手続きの必要から、なかなか連合国側に受諾文書の打電ができない。

いつつぎなる原子爆弾が投下され、百万の連合国部隊が上陸し、あるいはソ連軍が大陸からなだれ込んでくるかわからない、そうした数十万の人命が左右される切羽詰まった状況にあって、躓きの石となるのが、訳語の解釈、面子を立てる立てない、清書を間違える、署名を渋る、といった卑小な事柄なのである。

だがこのように「卑小さ」を描くことは、かならずしも戦前・戦中期の日本の指導層における非合理性を指弾するという意味合いをもってはいない。もちろんそうした面もあるのだが、しかし、その重大さと卑小さのコントラストを強調するなかに、どこかしらユーモアの感覚が仕込まれており、そのユーモアの視線において、そうした情けない人間の振る舞いを、ある意味で寛容に受け入れるような「視点」が確保されている。

その感覚は、クーデターを起こして戦争継続を訴えようとする青年将校たちが、必死になって捜索するのが、玉音を録音したレコードという端的な「モノ」であるという点にもあらわれているだろう。ここには、戦後民主主義という絶対的な「正しい」地点から、戦前・戦中の指導層や青年将校たちを、一方的に「間違った」者として断罪するという、ありがちな、わかりやすい構図に収まりきらない何ものかがある。

二度と戦争を繰り返してはならない、という強いメッセージを前面に掲げつつも、むしろユーモアの感覚を媒介に、現在の日本人をも、当時と同じ地点に引き戻しつつ、大人が子供の過ちを受け入れるような仕方で、等しく抱擁するような「視点」がどこかに保持されている。

岡本喜八の批判的視点は、このユーモアの感覚と切り離すことができない。批判をしている自分の立ち位置そのものをも相対化するような、ある超越的な「視点」を確保することで、その批判の力は局地的な相対性を脱し、普遍性へと高められているのである。

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May 27, 2008

『地上5センチの恋心』

『地上5センチの恋心』(2007年)を観た。エリック=エマニュエル・シュミット監督。出演はカトリーヌ・フロ、アルベール・デュポンテルなど。

デパートの化粧品売り場ではたらくオデットの唯一の楽しみは、ロマンス小説を読むこと。作者バルタザールのサイン会で、オデットは思いを込めた手紙を彼に渡す。

バルタザールは新作を批評家に酷評され、しかも妻が浮気をしていることを知り、すっかり落ち込んでいたところ、ふとオデットの手紙を読み、自分という存在を全面的に愛してくれる読者がいることに感動し、すぐさまオデットの住処にまでやってくる。憧れの作家が自分を頼ってきたことに戸惑いながらも、オデットはバルタザールを受け入れ、持ち前のバイタリティで彼を癒してゆく……。

名声と才能と金銭という、すべてを持ち合わせていながらも、真の愛に飢えている男と、平々凡々の生活を送りながらも、真に人を愛することのできる女。このモティーフを支えているのは、わりと陳腐な二分法的紋切り型である。上流階級の空虚な「みせかけ」の生活と、大衆の歓びあふれる「ほんもの」の生活。

「みせかけ」を壊された男が、「ほんもの」のバイタリティをもつ女に触れ、生命力を賦活されて、再び「みせかけ」の世界で生きてゆく力をえる。これは神話的な再生の物語であるといってよい。オデットは巫女のごとく元気に歌い、かつ踊る。歌と踊りという、この映画のミュージカル的要素は、まさに再生の神話的儀礼に不可欠な要素にほかならない。

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March 13, 2008

『ジャージの二人』

長嶋有という人の小説『ジャージの二人』をふと本屋で手にとり、酒を飲みながら読んだ。この人は映画になった『サイドカーに犬』の原作者で、この映画を以前に観ていたことから、少し気になっていたのだ。何気ない日常の、すぐに浮かんでは消えるようなユルい屈託を、上手に嫌みなく描いている、そこそこに面白い小説。

ユルい屈託とは、たとえばこういうシーンにあらわれている。主人公の男が父親と軽井沢の別荘にいき、関係が微妙になっている奥さんと電話で話しているときに、相手から「充実してるのかあ」と聞かれて、「ちがうよ。『充実』をしてるんだよ」と、ややむきになって強調するシーン。

即自的に充実しているのではなく、対自的に充実という状態をつくりだすべく意識的に努力をしている、というわけである。いいかえれば、日々を無防備に過ごすなかで、勝手に充実した状態が自分のもとにやってきて、そうした満足の状態を自分は受動的に引き受け、ああ、充実していることだなあ、と、だらしなく感慨を漏らしている自分がいる、そうした自己のありよう、ないしは、そうした自己を誇示的に表明するような自己のありようを、相手にたいして否定しているのだ。

自分としては、そのように相手の心情を慮らずに、自分の満足状態をそれこそ満足げに披瀝するような、恥知らずの自分なのではなく、むしろ別荘での休日という状況からいくぶんシニカルな距離をとりつつ、いわば夏の休暇「ごっこ」を営み、そのなかで充実「ごっこ」をしているのだという、この屈託。

充実した状態には没頭しきれないことを自覚しつつ、ということはすなわち、目指している状態には最終的に到達しえないことを十分に自覚しつつも、あえてその振るまいのもとにみずからを置いてみる、そうした一種の実験的行為をしているのだという位置取りに示されているような屈託を、主人公は「充実をしている」という言い方の「を」という語のうちにこめているのだ。

しかし、そうした屈託を屈託として強調するその当の振るまいこそが、妻を相手に、屈託を屈託なく示そうとする当初の目的を裏切ってしまっているところに、主人公のダメさ加減が遺憾なくあらわれており、そうした地味でありつつもじわりと効いてくるダメさの描写が、この作者はとても上手だと思うのである。

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February 10, 2008

『チーム・バチスタの栄光』

『チーム・バチスタの栄光』(2008年)を観る。中村義洋監督。出演は、竹内結子、阿部寛、吉川晃司、池内博之など。

心臓のバチスタ手術という、難度の高い手術を幾度も成功させてきたチームが、ここ三度ほど、つづけて患者を死亡させてしまった。チームを率いる天才外科医・桐生(吉川晃司)は、チーム内に、意図的に患者を殺した犯人がいるかもしれないという疑いを抱き、院長に調査を依頼する。そこでなかば偶然のきっかけから、院長からの命をうけて、通称「グチ外来」の医師・田口公子(竹内結子)が捜査に着手するのだが……。

とまあ、いちおうはミステリ仕立ての話なのだけれど、どうも制作側のやりたいことが分裂している感じがして、作品としてのパンチが弱いというのが第一印象。

つまり、医療現場を舞台とした犯人捜しの本格ミステリにしたいのか、阿部寛や山口良一といったキャラを活かしたドタバタ喜劇風にしたいのか、あるいは患者とのしみじみとした交流をあつかうヒューマンドラマにしたいのか、等々、いろんな方向性が、基本軸を決めないままにだらだらと詰め合わされているため、個別的には見所があるものの、総体としては、何がしたかったのか分からず、ぼんやりとした印象しかもてなかったのである。

とくに阿部寛という濃いキャラを不用意に持ちこんだために、竹内結子の上品な薄味がすっかりとんでしまっている点が残念であった。ストーリーの展開上からしても、厚労省の豪腕官僚が外部からやってきて、わけのわからないバイタリティと分析力をもって、勝手に事件を解決してしまうというのは、いかにも乱暴ではないか。これでは竹内結子がいてもいなくても同じである。

たとえば、阿部寛のガツガツとしたマスキュリンな捜査が見落とす部分を、フェミニンな竹内結子が重要な鍵として拾いあげてみせるとか、あるいは、もう少しひねるなら、阿部寛が不意にみせる弱い部分に、竹内結子の意外に強靱な押しの一手が絡まり、解決の糸口が見出されるとか、そういう何らかの逆説的な運動があれば、ストーリー上のカタルシスが得られるのだけれども。

また最後に明らかになる犯人が、ただのサイコさんだったというのも不満なところ。一見謎めいてはいるが、じつは合理的な動機が準備されていたり、あとで納得のいく伏線が周到に張ってあったりするわけではなく、ただ「おかしい人だった」というのでは、いかにも推理の甲斐がない。

まあ、現実の社会に起きている事件そのものが、人格や精神の「おかしい人だった」ということで説明されてしまう状況があるので、その点では、こういう身も蓋もないプロットのほうが、むしろ現実を忠実に反映しているのかもしれないが。

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『L change the WorLd』

『L change the WorLd』(2008年)を観た。中田秀夫監督。主演は松山ケンイチ。なんだか、生物兵器としてのウィルスとか、地球環境を守るために人類を減らそうとする計画とか、タイでのロケとか、そういうのはどうでもよく、要は、L萌えのためのプロモーションビデオであった。

言い換えれば、本編でのクールなLを、いろんなシチュエーションにおいて遊んでみた、というもの。苦手な子どもを絡ませてみたり、秋葉原のメイドカフェに連れていってみたり、自転車に乗せてみたり、背筋を伸ばさせてみたり、等々、L萌えの方々の欲望を、ごくだらしなく、ひとつひとつ実現させてみたというだけの話。

スピンオフにはたぶん二種類あって、ひとつは本編の世界観から派生する別種の物語を描くことにより、本編の世界観そのものに深みをあたえるもの。もうひとつは、本編の世界観からは切り離された地平にキャラだけを抽出してきて、いろいろなシチュエーションを組み合わせ、本編との落差を楽しませるもの。

本編との関係という面では、前者は補完的かつ批評的であるのにたいし、後者は依存的かつ没批評的。この分類からいえば、本作品は後者にあたるだろう。物語などどうでもよいという、同人誌的なノリを、こういうふうにベタになぞるのもよいが、もう少し批評的な視点があってもよいかと思った。

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February 06, 2008

『ユビサキから世界を』

『ユビサキから世界を』(2006年)を観る。行定勲監督。出演は、谷村美月、北乃きい、ほか。くだらない日常がだらだら続き、輝かしい未来像も描けないなかで、どっちでもいいから、じゃあ死のうか、というノリで、集団自殺をこころみる女子高生四人の話。

四人が抱いているのは、けっして絶望ではない。絶望というのは、希望がまずあって、それが、ある社会的な壁によって、どうしようもなく絶たれてしまうところに生じるのだが、四人の場合には、そもそも希望じたいがあらかじめ吸い取られており、したがって反抗すべき壁はない。そこに現代の独特の困難がある。

「生きがい」のない社会は、そのまま「死にがい」のない社会であって、つまりは自殺にさえロクな意味づけができない時代の、名づけえぬ閉塞感と、ぎりぎりの希望を描きだそうとしている映画だといえる。

だが、それがどうもうまく描き切れていない印象。これは、誰か特定の人物に起因するものではない閉塞感を、映画のストーリー上、誰かのせいにせざるをえない点に、ひとつの無理があるのかもしれない。嫌味な先生のせいだったり、浮気をする親のせいだったり、そういう分かりやすい描き方をした時点で、嘘がまぎれこむ気がする。

また、希望をみいだす契機にしても、おじいさんの乗った飛行機の墜落というのは、ちょっと納得がいかない。内的な煮詰まりの打開は外的な偶然によるしかない、というのは分かるが、その偶然が、どこかで内的な煮詰まりと結びついている必要があり、そのへんのつながりを、短い尺の映画のなかで描き切れていない感じがする。

たとえば、ソフィア・コッポラ監督の『ヴァージン・スーサイズ』などは、アメリカ郊外の閉塞感のなかで、自殺へと向かう少女たちの虚無的な心理を、外側=男の子視点から、あくまでも謎として描いて成功しているのだが、それを、あえて少女たちの心理の内側から描こうとしたところに、行定監督のチャレンジ精神が認められる。だけれども、監督の類い希な日常描写力をもってしても、やはりこの課題を描ききるのは難しかったように思う。

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『スウィーニー・トッド』

『スウィーニー・トッド』(2007年)を観る。ティム・バートン監督。出演はジョニー・デップ、ヘレナ・ボナム=カーターほか。無実の罪で入獄させられた理髪師が、自分を陥れた判事に復讐をする機会をうかがいながら、ミートパイ屋の女と手を組んで、二階に殺人理髪店、一階に人肉ミートパイ屋を営むという、まあ、ひどい話。

けれどもバートン的世界のミュージカルという趣向がまずありきなので、ストーリーの妙はさほど期待すべきではないのかも。細部まで作りこんだ世界観の構築という点では、まず満足点。ヴィクトリア朝ロンドンの、寒さ、暗さ、ドブくさい臭い、ぬめぬめ感が、触覚レベルで感じられる映像はさすがである。

それにしても、バートン監督といえば、シザーハンズやナイトメア・ビフォー・クリスマスなど、グロい表現と同居する異形のものの悲しみや、無器用な愛情といったモティーフが、人気の秘密だったと思うのだが、今回はグロ全開のまま、最後にほとんど主要人物の全員が死んでしまって、まったく救いがない。

ミートパイ屋の女が途中で夢みる、南国での安逸な日々というシーンが、わずかなユートピア的要素だったか。強い日射しのなかでの、白塗りジョニー・デップの居心地の悪そうな佇まいがよかった。

だけども要は、ティム・バートンが、殺人理髪店と人肉ミートパイという組み合わせを気に入って、あと、ガクンと死体を落っことすメカニックな椅子を作りたかっただけなのかもしれない。メカ好きだし。

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December 03, 2007

『さよならみどりちゃん』

『さよならみどりちゃん』(2004年)を観る。古厩智之監督。出演は星野真里、西島秀俊など。

だらしなく複数の女とつきあう、自分勝手なユタカに、ひたすら惚れてしまう女の子「ゆうこ」の話。はじめて一緒に寝たときに、じつは彼女がいるとあっさりユタカに告げられるところから、物語ははじまる。彼女の名前は「みどり」で、いまは沖縄にいるという。その時点から「ゆうこ」は、ユタカの勝手さに、一方的に振り回されることになる。

ユタカが勤めるカフェの近くにあるスナックに、バイトにはいることを相談もなく決められる、というのは序の口。新入りのバイトとすぐに寝ようとするわ、そのバイトのいるまえで、元カノと店のなかで酒を飲み、仕事を途中でほっぽらかして消えてしまうわ、しまいには「ゆうこ」に「ソープで働け」などというわ、まあ、勝手放題。

だけれどもそういうユタカに、主人公は執着してしまう。ユタカの店の、優しいバイト君と寝てみたりするが、やはり自分勝手なユタカが、どうしても忘れられない。一方、バイト先のスナックでは、当初は慣れなかったものの、しだいに酔っぱらいの扱いもうまくなり、ホステスとして一人前になってゆく「ゆうこ」。

客がカラオケを歌う、スナックでの擬似的な共同性。何を考えているかわからぬ男への、報われぬ愛。この二つのラインをもとに、物語はすすむ。「音痴」を理由に人前で歌えないことと、ユタカへの愛を告白できないことが、重なりあう。

あるとき、二つの場所に二人の「みどり」ちゃんがあらわれる。スナックには新入りとして、偶然にも同名の「みどり」ちゃんが。他方、ユタカのもとにも、本命の彼女である「みどり」ちゃんが帰ってくる。ここで二人の「みどり」ちゃんは、主人公にとって、自分の影のような存在である。かたや、スナックでの自分のポジションを脅かす存在として。そしてかたや、自分がめざしている、ユタカの愛を独占するポジションにいる存在として。

じつのところ、主人公がユタカに執着しているのは、この見知らぬライバルたる「みどり」に嫉妬しているためだ、ともいえる。ユタカは「みどり」の方だけを向き、自分を振り返ってくれない。見果てぬ目標としての「みどり」は、いわば亡霊として「ゆうこ」につきまとう。追いかけてくる「みどり」におびやかされつつ、見知らぬ「みどり」を追いかける「ゆうこ」。

沖縄から「みどり」がユタカのもとに帰ってきていることを、「ゆうこ」はスナックのママから聞かされる。スナックを出ると、ちょうどユタカが店を出てきて、「みどり」と一緒にタクシーに乗りこむところであった。二人の乗ったタクシーを、「ゆうこ」はひたすら走って追いかける。だが、追いつくことはできず、ついに「みどり」の顔を確認することはできない。朝方、疲れ切った主人公がアパートに帰ってくると、そこにユタカが待っていた。ユタカは「みどり」と別れたという。

部屋にはいると、「ゆうこ」はユタカにむかって、すぐにセックスをしようという。それまで、抱かれると「溶けてしまう」存在であった「ゆうこ」は、そのときはじめて、溶けることのない、実質のある存在となったのを感じる。「ゆうこ」は亡霊である「みどり」を振りはらい、自分を取り戻したのだ。

だけれども、あなたも私を好きになってほしいという「ゆうこ」の言葉に、ユタカは答えず、出ていってしまう。ユタカは目の前の、自分をまっすぐにみつめる「ゆうこ」の存在に堪えられなかったのだ。

ユタカはそもそも、遠くに去ってしまった彼女や、元カノ、バイトの新人、等々の、自分にまっすぐに向かってこない相手だけに、安心してその場かぎりの愛情を向けられる人間であり、自分勝手な言動は、その臆病さの裏返しにほかならない。自分をまっすぐに愛そうとする女には、つい無理な要求をしたり、粗暴にふるまったりして、はぐらかしてしまうのだ。

「ゆうこ」が影の存在である「みどり」に嫉妬をしているかぎりにおいて、その三角関係に媒介されているかぎりにおいて、ユタカにとって「ゆうこ」は安全な存在であった。だが幻想を振りはらった「ゆうこ」が、リアルな存在として、目の前に立ちあらわれたとき、ユタカはそれを正面から受けとめることに躊躇する。ユタカは、一対一の関係でせまってくる、リアルな女に、むしろ怯えてしまうのである。

興味深いことに、このリアルさにたいするユタカの主観的恐怖は、スクリーン上の「ゆうこ」の裸の撮影の仕方という点で、観客としての私たちにも間接的に示される。それまでは部分的にシーツで隠され、いくぶんか観る者に幻想的な美しさをあたえていた「ゆうこ」の姿は、さいごのシーンではフルヌードとして映しだされる。乳房をあらわにし、しかも逆光のなかで、陰影をともなったリアルな身体性がさらされるのである。この、ヴェールなしの、生々しい女の身体に、ユタカは背を向ける。媒介抜きのリアルに、ユタカは耐えられないのだ。

ユタカに去られた「ゆうこ」はしかし、リアルな存在の回復をきっかけに、あらたな一歩を踏みだすだろう。カラオケスナックの擬似的共同体のなかで、はじめて人前で歌うユーミンの歌「14番目の月」にのせて、その一歩は踏みだされるのである。

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November 20, 2007

『クラッシュ』

『クラッシュ』(1996年)を観た。デヴィッド・クローネンバーグ監督。出演はジェームズ・スペイダー、ホリー・ハンター、イライアス・コティーズ、デボラ・アンガーほか。ある男が、自分が巻き込まれた事故をきっかけに、自動車衝突がもつ魅力にとりつかれた奇妙な人びとと出会い、みずからもその不思議な魔力にはまりこんでゆく、というストーリー。

だがストーリー展開はさほど重視されず、もっぱらイメージの提示に力が入れられている。自動車事故を性的エネルギーの解放とみなしつつ、事故がもたらす衝撃、損壊した車体、身体の損傷、身体と無機物の融合、等々のイメージが、性的なニュアンスを帯びたかたちで、つぎつぎと並べられてゆく。

歴史上の有名人が起こした致命的な事故を再現しようとする、不思議な男。彼は、自動車事故にまつわる記事を収集し、衝突シーンをおさめたビデオを眺め、カメラをたずさえて事故現場に出かけ、恍惚とした表情で事故車や、怪我をした、または死亡した被害者の姿を、フィルムに定着させてゆく。

その男の彼女で、過去の事故のために足に補助具を装着している女は、ぎくしゃくと歩くたびに金属の硬質な音を響かせるのだが、彼女は、伸びやかでしなやかな身体を誇る、通常のヒロインとは正反対の、無機的なフェティシズムにいろどられた、独特のセックスアピールをそなえている。

彼らは無機的な機械とみずからの身体を、事故の衝撃のもとで融けあわせることに最高の性的興奮をおぼえるのだが、ここに示されている性のありようは、フロイトのいう死の欲動を想起させる、不毛かつ強迫的な性の様態にほかならない。

もともとはバラードの原作であり、多分に観念的であるにすぎないそうした性の次元を、冷静に描写するような態度で、具体的なイメージとして開示してみせる点に、クローネンバーグ監督の凄さを感じた。

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October 09, 2007

『渋滞』

『渋滞』(1991年)を観る。黒土三男監督。出演は萩原健一、黒木瞳、ほか。渋滞ロードムービー。

年末から正月にかけて、サラリーマン一家が、東京から瀬戸内海の島まで、車で帰省しようとするのだけれど、長い渋滞と、つぎつぎ降りかかるトラブルに翻弄され、いっこうに目的地に到着することができない。互いにイライラを高めあうなかで、家族とは何か、幸福とは何か、あるいは、日本社会が達成したはずの豊かさとは何か、等々を考えさせる作品。

萩原健一の理不尽な怒りっぷりと、ひたすら我慢を重ねる黒木瞳の、これまた理不尽な忍耐ぶりが見もの。「どうしてこうなっちゃうんだろうなあ…」と夫は何度も独りごちる。何も悪いことをしていないのに、誰一人悪くはないはずなのに、なぜか不運な出来事がつぎつぎと降りかかってくる。ただ帰省したいだけなのに、渋滞のなかで身動きをとることができない。

通常のロードムービーが、道路を走り抜ける疾走感、広々とした大地をゆく開放感、道行きの途中で出会う人びととのドラマ、等々を売り物としていることと比べれば、これは異色のロードムービーといってよいだろう。いっこうに動かない渋滞、狭い車内空間、やり場のないストレス感にいろどられた、逆説的なロードムービー。

一般的にロードムービーというのは、さまざまな経験が生じる道行きを、ひとつの人生のメタファーとして表現しているといってよいだろう。とするならば、夫婦と子供二人が乗るステーションワゴンは、移動式の家庭であり、瀬戸内へと向かうトラブル続きの道行きは、家族がこれから経験する、困難な人生の道行きのメタファーとなる。

狭い車内に、楽しげな笑い声が響いていたかと思うと、つぎの瞬間には怒声が飛び交い、泣き声と不機嫌が充満する。そうした渋滞のなかの車のような家庭生活を、いかにして幸福なものとして、これからも続けていくことができるのか。そうした、ストレスに満ちた現代社会での、ありうべき家族の幸福という問題を、この映画は問いかけているのだといえる。

ひとつの突破口として暗示されているのは、車の外の人びととの交流である。豚を運ぶトラックの若い男女。不機嫌な場末のバーのマダム。それぞれにめんどうな人生を抱え、トラブルを抱えつつ、それでも自分なりの幸福を見つけようとしている、彼ら・彼女らとの出会いが、微妙なしかたで夫の態度を穏和な方向へと変えてゆくのである。

だが現代の視点からは、もう少し意地悪な解決法も考えられる。この映画のトラブルのいくつかは、携帯電話で解決できてしまう。実家に連絡を入れたり、病院に連絡をとったり、あるいは渋滞情報をみたり、ナビがわりに道を調べたり、ゲームやメールをしたり、などなど。

ということは、狭い車内空間をさらに個室化して、夫婦と子供たちが、個別的に携帯電話をいじって外部と連絡をとったり、ネットやゲームをしていたりすれば、それはそれなりに、静かで安定した快適な車内生活を送ることができるのではないか、という見方が可能になる。

狭い家庭内を快適に過ごすために、各自の心がけを変えたり、我慢の美徳を内面化したりするのではなく、たんに便利なメディアを導入すればよいのだ、という技術的解決。時代の流れとしては、一方でこのような乾いたリアルへと向かっているような気がする。家庭のなかが個別の仕切りを設け、メディア環境を整備したマンガ喫茶のようになる現実も、まんざらありえないことではないのだ。

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September 22, 2007

『ラブ・アクチュアリー』

『ラブ・アクチュアリー』(2003年)を観た。リチャード・カーティス監督。出演はヒュー・グラント、リーアム・ニーソンほか。クリスマス前のロンドンの、浮き足だった空気のなか、さまざまな恋愛が生まれ、ときには成就し、ときにはすれ違いに終わる、そうした小さな物語の数々を、同時進行的につぎつぎと切り替え、重ねてゆくことで、現代的な愛のかたちを描きだす恋愛コメディ。

キャストが豪華なのは分かるけれど、何というか狙っている路線が見えすぎて、嫌味な感じになってしまっている。クリスマス前にみんなで観て、あたたかい気持ちになってね、という、毒にも薬にもならない映画である。

小太りの秘書の女の子に恋をする首相。親友の妻に恋をする男。映画のスタンドインで、恋愛シーンの代役をやっているうちに恋が芽生える二人。学校のヒロインに一目惚れをする男の子と、彼の恋愛を応援する義理の父。家政婦のポルトガル人女性に恋をする小説家、等々。これらは最後にすべて恋愛が成就するので、あまり面白くない。

が、描かれる物語のなかには、うまくいかない恋愛関係もある。部下の魅力に負けて、不倫をしてしまうデザイン会社社長の場合には、奥さんにばれて、もはやお互いに愛情を失いながらも、家族のために、仮面的な夫婦関係を続けることとなる。このへんは、もう少し突きつめると、イギリス中流の病んだ感じが出てくるのだが。

おなじデザイン会社で、見込みがないと思っていたハンサム男を、思いがけずパーティーでつかまえたOLは、ベッドインに成功しかけるのだが、いざというときに何度も弟から電話がかかり、そちらを優先したために男を逃してしまう。弟は精神的な病をかかえて入院しており、彼女は、弟とのあいだの家族愛を選択するのである。

「うまくいく」「うまくいかない」という二つのケースのほかに、もうひとつ、「ありえない」というパターンもある。まったくモテないブ男の青年が、何を思ったのか、アメリカだったらモテるはずだと妄想を膨らまし、友人の制止するのもきかずにリュックひとつでアメリカに出かけたところ、到着当日に立ちよったバーで三人の美女に言い寄られ、彼女たちの家に迎えられベッドインという話。

これは、いちおう「うまくいく」わけだけれども、通常の恋愛物語のパターンである「障害→克服→成就」につきもののカタルシスがまったくない点で、ちょっとズレている。「うまくいかないかと冷や冷やさせられたけど、結局うまくいってよかった」というのが、恋愛物語。逆に「うまくいくはずだったのに、結局ダメだった」というのが、失恋物語。

いずれも上げたり下げたりの運動があり、それによってある種のカタルシスが生じている。ところが、この幸運なブ男の話では、たんに「ひたすらうまくいった」というだけ。上げたり下げたりがない。理不尽なまでに、ただただモテる。けれどもこのカタルシスのなさが、ぎゃくに気持ちよく感じたりもする。

これと似たパターンは、ひたすら悪逆非道をなす人物が、幸福な人生を送り、安らかに生涯を終えるという物語で、マンガでいえば岡崎京子がこういうストーリーを書いていた。現実とはえてしてこういうもので、カタルシスがないほうが、リアルであるともいえるのだ。まあ、現実にカタルシスがないから、物語に求めているのだというのも事実だろうけど。

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September 03, 2007

『ブロークン・フラワーズ』

『ブロークン・フラワーズ』(2005年)を観た。ジム・ジャームッシュ監督。主演はビル・マーレイ。IT長者の初老男性が、ふとしたきっかけから、過去につきあった複数の女性を訪ね歩くロードムービー。

ドンはITで金をもうけ、悠々自適の生活だが、これといって情熱を傾ける対象もなく、無気力な顔つきで、閑静な郊外住宅のリビングで日がな一日テレビを観ている。ある日、ドンの彼女は、長い間つきあっていながら、いっこうに結婚を申し出ないドンに愛想をつかして出ていこうとする。いちおう引き留めつつも、そうした彼女の姿をも興味がなさそうに見送るドン。そのとき、郵便物として届いていたピンクの封筒が目にとまる。

それは匿名の手紙だったが、差出人は、20年前に別れた元恋人らしく、19歳になる彼とのあいだの息子が、近いうちにドンのもとをおとずれる、という内容であった。不思議に感じつつも、とくに手紙の謎に踏みこもうとしないドン。そこに食いつくのが隣人のウィンストンである。ウィンストンは探偵気取りで、封筒と手紙を分析したうえで、ドンにアドバイスをする。過去につきあった女性たちを、片っ端から訪問してみろ、というのである。

手紙の分析から、相手は、ピンク色が好きで、特定のタイプライターを持っているはずだ、という。そうして、過去の女性たちの現住所を調べあげ、航空券や地図までも手配し、さらには車内で聞くオリジナル編集のCDまで用意したうえで、ドンをむりやり旅に出させるのだ。ドンは訪問する先々で、元恋人たちに出会う。

別れたあとの彼女たちのライフコースはさまざまである。レーサーの夫に先立たれつつも、一人娘と気楽に暮らしている女。事業に成功しながら、夫とのあいだに子供はおらず、寂しく日々を過ごしている女。動物と話ができるという奇妙な才能を開花させ、動物セラピストとして充実した人生を歩んでいる女。あるいはまたヒッピーまがいの連中と、オンボロの家ですさんだ暮らしをしている女。

ドンは、これまたウィンストンの指示で、それぞれの女性をおとずれるさいに、ピンク色の花束を用意する。その花束への女たちの反応を見つつ、家のあちこちに、自分とのつながりを探すのである。だがじつは、自分との関係を示唆する細々としたもの、ピンク色のものは、彼女たちすべての家のなかにあって、それぞれが自分との関係の「証拠」にみえてくる。

まだこちらに好意をもっているような女の態度。壁に飾られたピンク色の絵画。大切にしまわれている、つきあっていた時分に撮った彼女の写真。どの女も「その女」であるようだし、そうでないようでもある。彼女たちの現在は、ありえたかもしれない自分の人生として、自分が選ばなかった選択肢の帰結として、ドンのまえに並べられる。

分岐点はすでに遠い過去にある。それはもう取り返しがつかない。だが同時に、その分岐の結果としての現在は、いま、目のまえにある。それはつまり、取り返しのつかない現在である。ブロークン・フラワーズ。散り散りになった花とは、それぞれの相手のことではない。相手とのありえた関係の現在、その複数的なありようのことなのである。

ドンは複数性の幽霊にとらわれる。その幽霊は、息子というかたちで自分のもとを訪れようとしている。さいごにドンは、自分の息子と勘違いして、ある一人旅の青年に声をかける。内省的で、哲学好きの青年。サンドイッチをおごってやり、相手の趣味や興味などを聞きだし、父親めいた教訓をあたえてやろうとする。

だが、そうして相手に、お前は自分の息子だろう、と詰めよると、相手は不気味がって逃げていってしまう。そのとき、うるさい音楽を鳴らしながら、小汚い車がドンの近くを通り、乗っていた小太りの男がじっとドンのほうを見つめる。ドンは、何ともいえない呆然とした顔でその車を見送る。こちらが息子であったのかもしれない――。

自分の息子がいるかも知れないということ。それは得体のしれない不安を引き起こす。それは、過去に、自分の意志をこえて、自分がすでに選択をしてしまったかもしれない、ということであり、その過去が、いま、時間をねじ曲げるようにして現在に直結し、息子というかたちで、目の前にあらわれようとしているのだ。

ドンがウィンストンにせっつかれながらも、旅行に出かけたのは、何よりも、この不安が原因になっているはずである。つまり、過去を現在に直結させないため、過去を過去として押しとどめておくため、すでに別れた恋人たちとの時間を再構成し、直線的な順序に、過去をひとつずつ並べ、現在につながる因果関係をストーリー仕立てにしようとしたのである。過去に追いつかれるまえに、過去を追いかけてやろう、と。

だがその意図は、裏切られることになる。過去が一連なりの物語になるどころか、過去は、ありえた複数的な現在として、ドンの現在をむしろ引き裂いてしまう。あの女性と過ごしていたかもしれない現在。あの青年と暮らしていたかもしれない現在。ブロークン・フラワーズ。それはドン自身の姿でもあったのだ。

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