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September 22, 2007

『ラブ・アクチュアリー』

『ラブ・アクチュアリー』(2003年)を観た。リチャード・カーティス監督。出演はヒュー・グラント、リーアム・ニーソンほか。クリスマス前のロンドンの、浮き足だった空気のなか、さまざまな恋愛が生まれ、ときには成就し、ときにはすれ違いに終わる、そうした小さな物語の数々を、同時進行的につぎつぎと切り替え、重ねてゆくことで、現代的な愛のかたちを描きだす恋愛コメディ。

キャストが豪華なのは分かるけれど、何というか狙っている路線が見えすぎて、嫌味な感じになってしまっている。クリスマス前にみんなで観て、あたたかい気持ちになってね、という、毒にも薬にもならない映画である。

小太りの秘書の女の子に恋をする首相。親友の妻に恋をする男。映画のスタンドインで、恋愛シーンの代役をやっているうちに恋が芽生える二人。学校のヒロインに一目惚れをする男の子と、彼の恋愛を応援する義理の父。家政婦のポルトガル人女性に恋をする小説家、等々。これらは最後にすべて恋愛が成就するので、あまり面白くない。

が、描かれる物語のなかには、うまくいかない恋愛関係もある。部下の魅力に負けて、不倫をしてしまうデザイン会社社長の場合には、奥さんにばれて、もはやお互いに愛情を失いながらも、家族のために、仮面的な夫婦関係を続けることとなる。このへんは、もう少し突きつめると、イギリス中流の病んだ感じが出てくるのだが。

おなじデザイン会社で、見込みがないと思っていたハンサム男を、思いがけずパーティーでつかまえたOLは、ベッドインに成功しかけるのだが、いざというときに何度も弟から電話がかかり、そちらを優先したために男を逃してしまう。弟は精神的な病をかかえて入院しており、彼女は、弟とのあいだの家族愛を選択するのである。

「うまくいく」「うまくいかない」という二つのケースのほかに、もうひとつ、「ありえない」というパターンもある。まったくモテないブ男の青年が、何を思ったのか、アメリカだったらモテるはずだと妄想を膨らまし、友人の制止するのもきかずにリュックひとつでアメリカに出かけたところ、到着当日に立ちよったバーで三人の美女に言い寄られ、彼女たちの家に迎えられベッドインという話。

これは、いちおう「うまくいく」わけだけれども、通常の恋愛物語のパターンである「障害→克服→成就」につきもののカタルシスがまったくない点で、ちょっとズレている。「うまくいかないかと冷や冷やさせられたけど、結局うまくいってよかった」というのが、恋愛物語。逆に「うまくいくはずだったのに、結局ダメだった」というのが、失恋物語。

いずれも上げたり下げたりの運動があり、それによってある種のカタルシスが生じている。ところが、この幸運なブ男の話では、たんに「ひたすらうまくいった」というだけ。上げたり下げたりがない。理不尽なまでに、ただただモテる。けれどもこのカタルシスのなさが、ぎゃくに気持ちよく感じたりもする。

これと似たパターンは、ひたすら悪逆非道をなす人物が、幸福な人生を送り、安らかに生涯を終えるという物語で、マンガでいえば岡崎京子がこういうストーリーを書いていた。現実とはえてしてこういうもので、カタルシスがないほうが、リアルであるともいえるのだ。まあ、現実にカタルシスがないから、物語に求めているのだというのも事実だろうけど。

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September 03, 2007

『ブロークン・フラワーズ』

『ブロークン・フラワーズ』(2005年)を観た。ジム・ジャームッシュ監督。主演はビル・マーレイ。IT長者の初老男性が、ふとしたきっかけから、過去につきあった複数の女性を訪ね歩くロードムービー。

ドンはITで金をもうけ、悠々自適の生活だが、これといって情熱を傾ける対象もなく、無気力な顔つきで、閑静な郊外住宅のリビングで日がな一日テレビを観ている。ある日、ドンの彼女は、長い間つきあっていながら、いっこうに結婚を申し出ないドンに愛想をつかして出ていこうとする。いちおう引き留めつつも、そうした彼女の姿をも興味がなさそうに見送るドン。そのとき、郵便物として届いていたピンクの封筒が目にとまる。

それは匿名の手紙だったが、差出人は、20年前に別れた元恋人らしく、19歳になる彼とのあいだの息子が、近いうちにドンのもとをおとずれる、という内容であった。不思議に感じつつも、とくに手紙の謎に踏みこもうとしないドン。そこに食いつくのが隣人のウィンストンである。ウィンストンは探偵気取りで、封筒と手紙を分析したうえで、ドンにアドバイスをする。過去につきあった女性たちを、片っ端から訪問してみろ、というのである。

手紙の分析から、相手は、ピンク色が好きで、特定のタイプライターを持っているはずだ、という。そうして、過去の女性たちの現住所を調べあげ、航空券や地図までも手配し、さらには車内で聞くオリジナル編集のCDまで用意したうえで、ドンをむりやり旅に出させるのだ。ドンは訪問する先々で、元恋人たちに出会う。

別れたあとの彼女たちのライフコースはさまざまである。レーサーの夫に先立たれつつも、一人娘と気楽に暮らしている女。事業に成功しながら、夫とのあいだに子供はおらず、寂しく日々を過ごしている女。動物と話ができるという奇妙な才能を開花させ、動物セラピストとして充実した人生を歩んでいる女。あるいはまたヒッピーまがいの連中と、オンボロの家ですさんだ暮らしをしている女。

ドンは、これまたウィンストンの指示で、それぞれの女性をおとずれるさいに、ピンク色の花束を用意する。その花束への女たちの反応を見つつ、家のあちこちに、自分とのつながりを探すのである。だがじつは、自分との関係を示唆する細々としたもの、ピンク色のものは、彼女たちすべての家のなかにあって、それぞれが自分との関係の「証拠」にみえてくる。

まだこちらに好意をもっているような女の態度。壁に飾られたピンク色の絵画。大切にしまわれている、つきあっていた時分に撮った彼女の写真。どの女も「その女」であるようだし、そうでないようでもある。彼女たちの現在は、ありえたかもしれない自分の人生として、自分が選ばなかった選択肢の帰結として、ドンのまえに並べられる。

分岐点はすでに遠い過去にある。それはもう取り返しがつかない。だが同時に、その分岐の結果としての現在は、いま、目のまえにある。それはつまり、取り返しのつかない現在である。ブロークン・フラワーズ。散り散りになった花とは、それぞれの相手のことではない。相手とのありえた関係の現在、その複数的なありようのことなのである。

ドンは複数性の幽霊にとらわれる。その幽霊は、息子というかたちで自分のもとを訪れようとしている。さいごにドンは、自分の息子と勘違いして、ある一人旅の青年に声をかける。内省的で、哲学好きの青年。サンドイッチをおごってやり、相手の趣味や興味などを聞きだし、父親めいた教訓をあたえてやろうとする。

だが、そうして相手に、お前は自分の息子だろう、と詰めよると、相手は不気味がって逃げていってしまう。そのとき、うるさい音楽を鳴らしながら、小汚い車がドンの近くを通り、乗っていた小太りの男がじっとドンのほうを見つめる。ドンは、何ともいえない呆然とした顔でその車を見送る。こちらが息子であったのかもしれない――。

自分の息子がいるかも知れないということ。それは得体のしれない不安を引き起こす。それは、過去に、自分の意志をこえて、自分がすでに選択をしてしまったかもしれない、ということであり、その過去が、いま、時間をねじ曲げるようにして現在に直結し、息子というかたちで、目の前にあらわれようとしているのだ。

ドンがウィンストンにせっつかれながらも、旅行に出かけたのは、何よりも、この不安が原因になっているはずである。つまり、過去を現在に直結させないため、過去を過去として押しとどめておくため、すでに別れた恋人たちとの時間を再構成し、直線的な順序に、過去をひとつずつ並べ、現在につながる因果関係をストーリー仕立てにしようとしたのである。過去に追いつかれるまえに、過去を追いかけてやろう、と。

だがその意図は、裏切られることになる。過去が一連なりの物語になるどころか、過去は、ありえた複数的な現在として、ドンの現在をむしろ引き裂いてしまう。あの女性と過ごしていたかもしれない現在。あの青年と暮らしていたかもしれない現在。ブロークン・フラワーズ。それはドン自身の姿でもあったのだ。

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