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February 10, 2008

『チーム・バチスタの栄光』

『チーム・バチスタの栄光』(2008年)を観る。中村義洋監督。出演は、竹内結子、阿部寛、吉川晃司、池内博之など。

心臓のバチスタ手術という、難度の高い手術を幾度も成功させてきたチームが、ここ三度ほど、つづけて患者を死亡させてしまった。チームを率いる天才外科医・桐生(吉川晃司)は、チーム内に、意図的に患者を殺した犯人がいるかもしれないという疑いを抱き、院長に調査を依頼する。そこでなかば偶然のきっかけから、院長からの命をうけて、通称「グチ外来」の医師・田口公子(竹内結子)が捜査に着手するのだが……。

とまあ、いちおうはミステリ仕立ての話なのだけれど、どうも制作側のやりたいことが分裂している感じがして、作品としてのパンチが弱いというのが第一印象。

つまり、医療現場を舞台とした犯人捜しの本格ミステリにしたいのか、阿部寛や山口良一といったキャラを活かしたドタバタ喜劇風にしたいのか、あるいは患者とのしみじみとした交流をあつかうヒューマンドラマにしたいのか、等々、いろんな方向性が、基本軸を決めないままにだらだらと詰め合わされているため、個別的には見所があるものの、総体としては、何がしたかったのか分からず、ぼんやりとした印象しかもてなかったのである。

とくに阿部寛という濃いキャラを不用意に持ちこんだために、竹内結子の上品な薄味がすっかりとんでしまっている点が残念であった。ストーリーの展開上からしても、厚労省の豪腕官僚が外部からやってきて、わけのわからないバイタリティと分析力をもって、勝手に事件を解決してしまうというのは、いかにも乱暴ではないか。これでは竹内結子がいてもいなくても同じである。

たとえば、阿部寛のガツガツとしたマスキュリンな捜査が見落とす部分を、フェミニンな竹内結子が重要な鍵として拾いあげてみせるとか、あるいは、もう少しひねるなら、阿部寛が不意にみせる弱い部分に、竹内結子の意外に強靱な押しの一手が絡まり、解決の糸口が見出されるとか、そういう何らかの逆説的な運動があれば、ストーリー上のカタルシスが得られるのだけれども。

また最後に明らかになる犯人が、ただのサイコさんだったというのも不満なところ。一見謎めいてはいるが、じつは合理的な動機が準備されていたり、あとで納得のいく伏線が周到に張ってあったりするわけではなく、ただ「おかしい人だった」というのでは、いかにも推理の甲斐がない。

まあ、現実の社会に起きている事件そのものが、人格や精神の「おかしい人だった」ということで説明されてしまう状況があるので、その点では、こういう身も蓋もないプロットのほうが、むしろ現実を忠実に反映しているのかもしれないが。

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『L change the WorLd』

『L change the WorLd』(2008年)を観た。中田秀夫監督。主演は松山ケンイチ。なんだか、生物兵器としてのウィルスとか、地球環境を守るために人類を減らそうとする計画とか、タイでのロケとか、そういうのはどうでもよく、要は、L萌えのためのプロモーションビデオであった。

言い換えれば、本編でのクールなLを、いろんなシチュエーションにおいて遊んでみた、というもの。苦手な子どもを絡ませてみたり、秋葉原のメイドカフェに連れていってみたり、自転車に乗せてみたり、背筋を伸ばさせてみたり、等々、L萌えの方々の欲望を、ごくだらしなく、ひとつひとつ実現させてみたというだけの話。

スピンオフにはたぶん二種類あって、ひとつは本編の世界観から派生する別種の物語を描くことにより、本編の世界観そのものに深みをあたえるもの。もうひとつは、本編の世界観からは切り離された地平にキャラだけを抽出してきて、いろいろなシチュエーションを組み合わせ、本編との落差を楽しませるもの。

本編との関係という面では、前者は補完的かつ批評的であるのにたいし、後者は依存的かつ没批評的。この分類からいえば、本作品は後者にあたるだろう。物語などどうでもよいという、同人誌的なノリを、こういうふうにベタになぞるのもよいが、もう少し批評的な視点があってもよいかと思った。

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February 06, 2008

『ユビサキから世界を』

『ユビサキから世界を』(2006年)を観る。行定勲監督。出演は、谷村美月、北乃きい、ほか。くだらない日常がだらだら続き、輝かしい未来像も描けないなかで、どっちでもいいから、じゃあ死のうか、というノリで、集団自殺をこころみる女子高生四人の話。

四人が抱いているのは、けっして絶望ではない。絶望というのは、希望がまずあって、それが、ある社会的な壁によって、どうしようもなく絶たれてしまうところに生じるのだが、四人の場合には、そもそも希望じたいがあらかじめ吸い取られており、したがって反抗すべき壁はない。そこに現代の独特の困難がある。

「生きがい」のない社会は、そのまま「死にがい」のない社会であって、つまりは自殺にさえロクな意味づけができない時代の、名づけえぬ閉塞感と、ぎりぎりの希望を描きだそうとしている映画だといえる。

だが、それがどうもうまく描き切れていない印象。これは、誰か特定の人物に起因するものではない閉塞感を、映画のストーリー上、誰かのせいにせざるをえない点に、ひとつの無理があるのかもしれない。嫌味な先生のせいだったり、浮気をする親のせいだったり、そういう分かりやすい描き方をした時点で、嘘がまぎれこむ気がする。

また、希望をみいだす契機にしても、おじいさんの乗った飛行機の墜落というのは、ちょっと納得がいかない。内的な煮詰まりの打開は外的な偶然によるしかない、というのは分かるが、その偶然が、どこかで内的な煮詰まりと結びついている必要があり、そのへんのつながりを、短い尺の映画のなかで描き切れていない感じがする。

たとえば、ソフィア・コッポラ監督の『ヴァージン・スーサイズ』などは、アメリカ郊外の閉塞感のなかで、自殺へと向かう少女たちの虚無的な心理を、外側=男の子視点から、あくまでも謎として描いて成功しているのだが、それを、あえて少女たちの心理の内側から描こうとしたところに、行定監督のチャレンジ精神が認められる。だけれども、監督の類い希な日常描写力をもってしても、やはりこの課題を描ききるのは難しかったように思う。

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『スウィーニー・トッド』

『スウィーニー・トッド』(2007年)を観る。ティム・バートン監督。出演はジョニー・デップ、ヘレナ・ボナム=カーターほか。無実の罪で入獄させられた理髪師が、自分を陥れた判事に復讐をする機会をうかがいながら、ミートパイ屋の女と手を組んで、二階に殺人理髪店、一階に人肉ミートパイ屋を営むという、まあ、ひどい話。

けれどもバートン的世界のミュージカルという趣向がまずありきなので、ストーリーの妙はさほど期待すべきではないのかも。細部まで作りこんだ世界観の構築という点では、まず満足点。ヴィクトリア朝ロンドンの、寒さ、暗さ、ドブくさい臭い、ぬめぬめ感が、触覚レベルで感じられる映像はさすがである。

それにしても、バートン監督といえば、シザーハンズやナイトメア・ビフォー・クリスマスなど、グロい表現と同居する異形のものの悲しみや、無器用な愛情といったモティーフが、人気の秘密だったと思うのだが、今回はグロ全開のまま、最後にほとんど主要人物の全員が死んでしまって、まったく救いがない。

ミートパイ屋の女が途中で夢みる、南国での安逸な日々というシーンが、わずかなユートピア的要素だったか。強い日射しのなかでの、白塗りジョニー・デップの居心地の悪そうな佇まいがよかった。

だけども要は、ティム・バートンが、殺人理髪店と人肉ミートパイという組み合わせを気に入って、あと、ガクンと死体を落っことすメカニックな椅子を作りたかっただけなのかもしれない。メカ好きだし。

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