『日本のいちばん長い日』
『日本のいちばん長い日』(1967年)を観た。岡本喜八監督。出演は笠智衆、三船敏郎、黒沢年男など。御前会議でのポツダム宣言受諾の決定から、終戦の詔をラジオ放送するまでの一日半に起きた、詔の文案検討、玉音の録音、近衛師団の決起、陸軍大臣の切腹、等々の一連の出来事をめぐるドキュメンタリー調ドラマ。
主題はいろいろと読み込めるだろうけれども、そのひとつに、歴史的決定というものが、偶然的なバランスのもとで、危うい均衡点として成立するにすぎない、という主題がある。
ものごとが決定されるということは瞬間的な出来事ではありえず、その前には交渉と沈黙と疲労の長々しいプロセスがあり、またひとたび決定されたのちも、すぐに安心と平穏と回復の時間が訪れるわけではなく、一方では煩雑な儀式と手続きがあり、他方では決定の事実を引き延ばし、あるいは暴力的に覆そうとする動きが絶えず生じてくる。
そのようにして結局のところ、何かが決定されたということは、大小の偶然を含むすべての因果連関が収束して、長い時間が経過したあとの事後的な視点から、結果論として描き出されるほかはないのである。
なされるべき決定の重大性と、そのプロセスの卑小さとのコントラストが強く描き出される。詔書の文言をめぐっては、陸軍の面子をかけて「戦局必ずしも好転せず」としたい陸軍大臣と、それを欺瞞だとする海軍が互いに一歩も引かずに議論が膠着する。文書ができたあとも、それを清書して、御名御璽を得て、さらに内閣全員が署名をするという手続きの必要から、なかなか連合国側に受諾文書の打電ができない。
いつつぎなる原子爆弾が投下され、百万の連合国部隊が上陸し、あるいはソ連軍が大陸からなだれ込んでくるかわからない、そうした数十万の人命が左右される切羽詰まった状況にあって、躓きの石となるのが、訳語の解釈、面子を立てる立てない、清書を間違える、署名を渋る、といった卑小な事柄なのである。
だがこのように「卑小さ」を描くことは、かならずしも戦前・戦中期の日本の指導層における非合理性を指弾するという意味合いをもってはいない。もちろんそうした面もあるのだが、しかし、その重大さと卑小さのコントラストを強調するなかに、どこかしらユーモアの感覚が仕込まれており、そのユーモアの視線において、そうした情けない人間の振る舞いを、ある意味で寛容に受け入れるような「視点」が確保されている。
その感覚は、クーデターを起こして戦争継続を訴えようとする青年将校たちが、必死になって捜索するのが、玉音を録音したレコードという端的な「モノ」であるという点にもあらわれているだろう。ここには、戦後民主主義という絶対的な「正しい」地点から、戦前・戦中の指導層や青年将校たちを、一方的に「間違った」者として断罪するという、ありがちな、わかりやすい構図に収まりきらない何ものかがある。
二度と戦争を繰り返してはならない、という強いメッセージを前面に掲げつつも、むしろユーモアの感覚を媒介に、現在の日本人をも、当時と同じ地点に引き戻しつつ、大人が子供の過ちを受け入れるような仕方で、等しく抱擁するような「視点」がどこかに保持されている。
岡本喜八の批判的視点は、このユーモアの感覚と切り離すことができない。批判をしている自分の立ち位置そのものをも相対化するような、ある超越的な「視点」を確保することで、その批判の力は局地的な相対性を脱し、普遍性へと高められているのである。


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