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December 27, 2008

『男の怒りをぶちまけろ』

『男の怒りをぶちまけろ』(1960年)を観た。松尾昭典監督。出演は赤木圭一郎、浅丘ルリ子、二谷英明、その他。新聞記者の青年が、ふとしたきっかけで巨大ダイヤをめぐるギャングの陰謀事件に巻きこまれ、危険をすり抜けながら事件の真相に迫ってゆくアクション活劇。

ヒーローたる正義感あふれる好青年、ギャング団とその背後の黒幕、敵とも味方ともつかぬ両義的な女、これまたギャングと通じた危険な「事件屋」(新聞ダネになる事件に首を突っ込んで金を儲ける仕事)の男、ヒロインたる可憐な娘、等々、定型的なキャラクターが勢ぞろい。

巨大ダイヤを中心に、ギャング団同士が抗争を繰り広げるなか、主人公は自分を殺そうとした相手を探し出そうとし、事件屋の男は、混乱に乗じて当のダイヤをかすめとろうとする。事件の犠牲者となったトラック運転手の妹は、兄が殺された真相を探ろうと主人公に頼り、黒幕の女は、年老いた黒幕の一方的な愛玩に嫌気がさし、ついどちらつかずの行動をとってしまう。

いきなりハイジャックから始まるストーリーそのものは馬鹿馬鹿しく、真面目にとるほうが損をするくらいだが、この単純な物語の構造そのものは、なかなかバカにできない事柄を表現している。

最後にギャング同士の壮絶な殺しあいが展開され、事件屋が死に、黒幕が死んでしまったあとで、駆けつけた警官に主人公は「これがすべての原因です」とダイヤを差し出す。だが考えてみると、むしろこの熱血正義漢たる新聞記者の存在こそが、すべての原因だったのではないか。

この男が事件に紛れ込みさえしなければ、トラック運転手は「飲酒運転による事故死」として完全な偽装が成立し、片方のギャング団によるダイヤ強奪も相手方のギャング団に露見せず、すべては「うまくいった」はずなのである。

下手に正義感をもって事件の真相を探ろうとした結果、多数のギャング団が抗争で死亡し、黒幕自身とその女、また事件屋も死んでしまうこととなった。最終的に正義感とともに生き残ったのは、新聞記者の青年と、犠牲者の妹のカップルだけである――いや正確に言えば、ダイヤもまた生き残ったのであった。

青年の側からみれば、すべての原因はダイヤだったのであり、ギャング団の側からみれば青年の正義感こそがすべての原因なのであった。ダイヤを中心とする馬鹿げた殺しあいなのか、それとも正義感に引きずり回されたあげくの馬鹿げた殺しあいなのか。

これはじつのところ決定不能なのであり、それがまさに裏表の関係であることを正確無比なかたちで表現している点で、単純きわまりないこの映画の物語構造は、まことに傑出しているといわなければならない。

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December 25, 2008

『祇園囃子』

『祇園囃子』(1953年)を観た。溝口健二監督。出演は木暮実千代、若尾文子ほか。

貧しい父親を離れて、舞妓を志望して新しく茶屋に入ってきた少女に、姉のように慕われる芸妓の女が、その若気あふれる快活さに親のような眼差しを注ぎながら、一人前になるよう茶屋の世界の手ほどきをしていた。あるとき旦那を買って出た得意客の無理な要求に、少女が(文字通り)噛みついて抵抗したことにより、女は窮地に陥ってしまうことになる。

得意客の会社専務が接待しようとする役所の男に身を任せるならば、少女のことも許そうというのだが、女は、好きでもない男にそんなことをするわけにいかない、と、なかなか首を縦に振らなかったところ、業を煮やした女将が茶屋のネットワークを利用して、女に仕事が回らないようにしてしまうのである。

我が身を振り返りつつ、少女のまっすぐな心情は守ってあげたい。だが仕事を奪われてしまっては生きてゆくこともできない。このジレンマに窮した女は、ついに役所の男のもとに出かけることになるのだが、少女は、そうして得たお金を汚いものとして女をなじる。口論のあとで、しかし二人は仲直りをし、祇園祭の忙しい茶屋周りに出かけてゆく――。

男女平等という戦後民主主義的理念をまっすぐに掲げて恐れない少女と、そうした少女には見えていない茶屋や現実世界のネットワークを知りつつも、なおそれを盾にとって少女の幼さを上から断罪することには抵抗を感じてしまう女との、たんなる保護者と被保護者との関係にはとどまらない、女同士の共犯者的な関係性がうまく描かれている。

作品のなかで、男は単純なる動物として登場する。金と権力と女性をすべてわが手にしようとする動物である。得意客の専務はいわば狸であり、役所の男は蛇である。無闇に襲いかかってくる狸や、執拗に絡みついてくる蛇を、正面から叩くのではなく、なかば受け身の状態で引き受けつつ、うまく勢いを横にそらしてかわしてゆく。

女の身体は長年のそうした訓練に鍛えられ、まるで合気道の達人のような身のこなしを会得している。少女の溌剌とした身体はといえば、まだ訓練が足らず、どうしても正面から相手を叩こうとしてしまう。だがそうした飛び跳ねがちな身体と、落ち着いた滑らかな身体とが共犯者的にチームを組むとき、無粋な動物どもには容易に組み伏せられない、力強い可能性にみちた結合体がそこに生み出されることになる。

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