« August 2009 | Main

November 11, 2009

『事件』

『事件』(1978年)を観た。野村芳太郎監督。出演は、松坂慶子、永島敏行、大竹しのぶ、その他。とある殺人事件をめぐる法廷ドラマ。

ある町はずれの林のなかで、スナックのホステスの死体が発見される。ナイフで刺したとして逮捕され、被告になったのは19歳の少年である。さて、そこで殺人はどのように起こったのか、殺意はあったのか、あったとすればどのような動機にもとづくのか。それらの謎をめぐって、検事と弁護士とのあいだで応酬がなされる。

見物となるのは、そうした法定内でのやりとりと、そこでだんだん明らかとなる事件の真相である。証人が呼ばれ、それぞれの証人は、少年による殺人を示唆するような証言をおこなう。だが弁護士はつぎつぎと証言の矛盾点をついてゆき、証人たちの主張は曖昧になる。そうして、事件は殺人ではなかったという可能性がやがて浮かびあがる。事件の真相には、少年とホステス、それにホステスの妹との三角関係に絡んでいることが露わになってゆくのだ。

ホステスは少年を愛しており、少年もホステスに好意をもっていた。二人は深い関係になる。だがそこにホステスの妹が割り込み、少年を姉から奪おうとする。妹の賭け金となるのは、少年とのあいだに身ごもった赤ん坊である。姉は二人の関係を嫉妬し、赤ん坊を堕ろすよう二人に忠告する。だが二人はその忠告に反対し、一緒に家出をして都会に出て行こうとする。

事件はその家出の当日に起こる。少年がホステスをナイフで刺す。だが、じつはホステスの方が、少年に体をあずけるかたちでナイフが刺さったことが分かる。ホステスは、少年が自分を捨て、自分だけがうらぶれた町に残されることに耐えられなかったのだ。嘆くような、愛しがるような表情で少年に近づき、勢いよく胸に飛び込むホステス。

このため少年はジレンマにとらわれる。一方では、ホステスの方がみずから飛び込んできた不可抗力であるように思われる。だが他方、自分がホステスの存在を邪魔に感じていたのも事実である。殺意はあったのかもしれない。相手を殺し、怖くなってその死体を隠してしまったこと。そして、予定通りに妹と家出をして同棲生活を6日間送ってしまったこと。自分は殺したのか? 殺さなかったのか?

印象深いのは、そのように苦悩する少年の姿と、赤ん坊を宿して、静かに幸福そうな表情をたたえる少女の姿とのコントラストである。少女には迷いはない。この迷いのなさは、嘘を飲み込む否認の力の強さにもとづいている。法廷の場でも、少女は、証人として明らかに嘘の証言をする。妹は、ホステスと少年が一緒に旅館から出てきているのをみていた。二人のあいだに性的な関係があるのを知っていた。だが、二人のあいだには何もないと証言するのである。

彼女は、少年と姉との関係を否認し、少年は妹だけを愛していたというストーリーを公式の物語にしようとする。まったく疑いを知らぬような顔で、その物語を満足げに生きようとする少女が、大きな腹を抱え、よたよたと橋の上の歩道を歩いてゆくシーンで映画は終わるのだが、大きな嘘を押し込めたまま、ゆっくりと力強く歩く少女のたたずまいは、その幼さを残す顔とは裏腹に、異様な不気味さをはらんでいる。

これら三人の登場人物を成立させるベクトルは、土俗と都会という構図で考えることもできる。まず姉であるホステスは、町から都会に出ようとして失敗して帰ってくる存在である。彼女は都会の斥力と土俗の引力とのあいだで引き裂かれ、ついには疲れて絶望してしまう。つぎに少年は、都会の香りを引きずるホステスと、土俗の臭いを体現する妹とのあいだで宙づりになり、そのジレンマをいつまでも解決できず悩み続ける。

最後に妹は、嘘を飲み込み、矛盾を溶け込ませる土俗の力のもとに力強く生き残る。ほの暗い深みを抱えながら、一人、よたよたと歩いてゆく妊婦としての少女は、都会(=ひ弱な男?)に対する土俗(=逞しい女?)の勝利のアレゴリーともなっているだろう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 10, 2009

『サード』

『サード』(1978年)を観た。東陽一監督。出演は永島敏行、森下愛子ほか。少年院が舞台の、そこはかとなく暗い青春映画。

主人公は「サード」というアダ名の陰気な少年である。個性的な他の少年たちとの少年院生活と、少年院送りになるまえの、少女売春の仲介役をしていた頃のエピソードとが、かわるがわる描かれる。同級生の少女とパートナーを組み、自分が街行く男に声をかけ、少女に売春をさせるという手で金を集めていた主人公。あるときヤクザ者の客がしつこく、成り行きでついその男の頭を鈍器で殴って殺してしまう。

そうして少年院に送致された主人公は、集団生活になじめず、いつも一人、壁をじっとみてうつむいている。頑固な田舎っぽさを濃厚に感じさせる、重く静かな表情。何かを考えているようでもあり、何も考えていないようでもある。

「サード」とは、野球のサードをしていたことからきたアダ名だが、この少年の憂鬱さは、じじつ、ひたすらの待機と循環を本質とする野球というスポーツの憂鬱さにつうじている。だだっ広いグラウンドで、自分のところにボールが飛んでくるのをただただ待ち受けている野手の憂鬱さ。あるいはベースを何度も何度も周回し、元の場所に戻ってくるだけの行為を繰り返すことの憂鬱さ。

「サード」は少女が売春をしているあいだ、手持ちぶさたになり、建物の外の空き地でピッチングの真似を反復していた。また少年院のなかで唯一主人公が好んでおこなうのが、グラウンドをひたすら周回するマラソンの練習である。何ものかを待ちながら同じ動きを黙々と反復する――その身振りは憂鬱さの解消法であり、同時にその表現でもある。

憂鬱なまなざしは、曖昧な過去へと向かう。売春パートナーの少女との、恋愛とも友情ともつかぬ関係性。そこにぼんやりと固着する何ものかがある。そこには現在の状態、いま少年院のなかにいることの意味のヒントが見え隠れしているようだ。

「サード」はとくに少年院の《外》を夢見るわけではない。少年院の《外》にもまた社会という閉域があるだけだ。唯一、何かがありそうだと「サード」が期待するのは、祭りの喧噪である。少年院に送致されるタクシーのなかからみた、ある港町での祭りの喧噪。そのなかに何かがあるのかもしれないとぼんやり思う。

黙々と少年院のグラウンドを周回する「サード」。その脳裏にひらめく祭りの喧噪のイメージ。取り戻すべきものもとくにない。怒りの対象もとくにない。疎外から立ち戻るべき本質などもない。けれども現状は息苦しい。どこかに何か救いがあるのかもしれないが、それは曖昧なイメージとしてしか像を結ばない。そうした七〇年代的な閉塞感が全体に漂っている。

そうした七〇年代的な閉塞感は、しかし、管理された少年院という、それ自体は分かりやすい比喩のもとで描かれており、この比喩の分かりやすさという点だけでも、ある意味で七〇年代は幸福だったのかもしれない。無数の選択肢があり、見た目には解放されていながら、どこにも行き着けない二〇〇〇年代の閉塞感は、少年院という安易な比喩を許さない。その適切な比喩をすら見つけることが出来ていない点で、現在の乾いた閉塞感は、よりいっそう救いがたいのかもしれない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« August 2009 | Main