『サード』
『サード』(1978年)を観た。東陽一監督。出演は永島敏行、森下愛子ほか。少年院が舞台の、そこはかとなく暗い青春映画。
主人公は「サード」というアダ名の陰気な少年である。個性的な他の少年たちとの少年院生活と、少年院送りになるまえの、少女売春の仲介役をしていた頃のエピソードとが、かわるがわる描かれる。同級生の少女とパートナーを組み、自分が街行く男に声をかけ、少女に売春をさせるという手で金を集めていた主人公。あるときヤクザ者の客がしつこく、成り行きでついその男の頭を鈍器で殴って殺してしまう。
そうして少年院に送致された主人公は、集団生活になじめず、いつも一人、壁をじっとみてうつむいている。頑固な田舎っぽさを濃厚に感じさせる、重く静かな表情。何かを考えているようでもあり、何も考えていないようでもある。
「サード」とは、野球のサードをしていたことからきたアダ名だが、この少年の憂鬱さは、じじつ、ひたすらの待機と循環を本質とする野球というスポーツの憂鬱さにつうじている。だだっ広いグラウンドで、自分のところにボールが飛んでくるのをただただ待ち受けている野手の憂鬱さ。あるいはベースを何度も何度も周回し、元の場所に戻ってくるだけの行為を繰り返すことの憂鬱さ。
「サード」は少女が売春をしているあいだ、手持ちぶさたになり、建物の外の空き地でピッチングの真似を反復していた。また少年院のなかで唯一主人公が好んでおこなうのが、グラウンドをひたすら周回するマラソンの練習である。何ものかを待ちながら同じ動きを黙々と反復する――その身振りは憂鬱さの解消法であり、同時にその表現でもある。
憂鬱なまなざしは、曖昧な過去へと向かう。売春パートナーの少女との、恋愛とも友情ともつかぬ関係性。そこにぼんやりと固着する何ものかがある。そこには現在の状態、いま少年院のなかにいることの意味のヒントが見え隠れしているようだ。
「サード」はとくに少年院の《外》を夢見るわけではない。少年院の《外》にもまた社会という閉域があるだけだ。唯一、何かがありそうだと「サード」が期待するのは、祭りの喧噪である。少年院に送致されるタクシーのなかからみた、ある港町での祭りの喧噪。そのなかに何かがあるのかもしれないとぼんやり思う。
黙々と少年院のグラウンドを周回する「サード」。その脳裏にひらめく祭りの喧噪のイメージ。取り戻すべきものもとくにない。怒りの対象もとくにない。疎外から立ち戻るべき本質などもない。けれども現状は息苦しい。どこかに何か救いがあるのかもしれないが、それは曖昧なイメージとしてしか像を結ばない。そうした七〇年代的な閉塞感が全体に漂っている。
そうした七〇年代的な閉塞感は、しかし、管理された少年院という、それ自体は分かりやすい比喩のもとで描かれており、この比喩の分かりやすさという点だけでも、ある意味で七〇年代は幸福だったのかもしれない。無数の選択肢があり、見た目には解放されていながら、どこにも行き着けない二〇〇〇年代の閉塞感は、少年院という安易な比喩を許さない。その適切な比喩をすら見つけることが出来ていない点で、現在の乾いた閉塞感は、よりいっそう救いがたいのかもしれない。
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