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<title>それはどうなんだろう</title>
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<description>映画やマンガ、本の感想など
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<item rdf:about="http://soredou.cocolog-nifty.com/soredou/2009/11/post-403a.html">
<title>『事件』</title>
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<description>『事件』（1978年）を観た。野村芳太郎監督。出演は、松坂慶子、永島敏行、大竹し...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;『事件』（1978年）を観た。野村芳太郎監督。出演は、松坂慶子、永島敏行、大竹しのぶ、その他。とある殺人事件をめぐる法廷ドラマ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ある町はずれの林のなかで、スナックのホステスの死体が発見される。ナイフで刺したとして逮捕され、被告になったのは19歳の少年である。さて、そこで殺人はどのように起こったのか、殺意はあったのか、あったとすればどのような動機にもとづくのか。それらの謎をめぐって、検事と弁護士とのあいだで応酬がなされる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;見物となるのは、そうした法定内でのやりとりと、そこでだんだん明らかとなる事件の真相である。証人が呼ばれ、それぞれの証人は、少年による殺人を示唆するような証言をおこなう。だが弁護士はつぎつぎと証言の矛盾点をついてゆき、証人たちの主張は曖昧になる。そうして、事件は殺人ではなかったという可能性がやがて浮かびあがる。事件の真相には、少年とホステス、それにホステスの妹との三角関係に絡んでいることが露わになってゆくのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ホステスは少年を愛しており、少年もホステスに好意をもっていた。二人は深い関係になる。だがそこにホステスの妹が割り込み、少年を姉から奪おうとする。妹の賭け金となるのは、少年とのあいだに身ごもった赤ん坊である。姉は二人の関係を嫉妬し、赤ん坊を堕ろすよう二人に忠告する。だが二人はその忠告に反対し、一緒に家出をして都会に出て行こうとする。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;事件はその家出の当日に起こる。少年がホステスをナイフで刺す。だが、じつはホステスの方が、少年に体をあずけるかたちでナイフが刺さったことが分かる。ホステスは、少年が自分を捨て、自分だけがうらぶれた町に残されることに耐えられなかったのだ。嘆くような、愛しがるような表情で少年に近づき、勢いよく胸に飛び込むホステス。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;このため少年はジレンマにとらわれる。一方では、ホステスの方がみずから飛び込んできた不可抗力であるように思われる。だが他方、自分がホステスの存在を邪魔に感じていたのも事実である。殺意はあったのかもしれない。相手を殺し、怖くなってその死体を隠してしまったこと。そして、予定通りに妹と家出をして同棲生活を６日間送ってしまったこと。自分は殺したのか？　殺さなかったのか？&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;印象深いのは、そのように苦悩する少年の姿と、赤ん坊を宿して、静かに幸福そうな表情をたたえる少女の姿とのコントラストである。少女には迷いはない。この迷いのなさは、嘘を飲み込む否認の力の強さにもとづいている。法廷の場でも、少女は、証人として明らかに嘘の証言をする。妹は、ホステスと少年が一緒に旅館から出てきているのをみていた。二人のあいだに性的な関係があるのを知っていた。だが、二人のあいだには何もないと証言するのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;彼女は、少年と姉との関係を否認し、少年は妹だけを愛していたというストーリーを公式の物語にしようとする。まったく疑いを知らぬような顔で、その物語を満足げに生きようとする少女が、大きな腹を抱え、よたよたと橋の上の歩道を歩いてゆくシーンで映画は終わるのだが、大きな嘘を押し込めたまま、ゆっくりと力強く歩く少女のたたずまいは、その幼さを残す顔とは裏腹に、異様な不気味さをはらんでいる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;これら三人の登場人物を成立させるベクトルは、土俗と都会という構図で考えることもできる。まず姉であるホステスは、町から都会に出ようとして失敗して帰ってくる存在である。彼女は都会の斥力と土俗の引力とのあいだで引き裂かれ、ついには疲れて絶望してしまう。つぎに少年は、都会の香りを引きずるホステスと、土俗の臭いを体現する妹とのあいだで宙づりになり、そのジレンマをいつまでも解決できず悩み続ける。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;最後に妹は、嘘を飲み込み、矛盾を溶け込ませる土俗の力のもとに力強く生き残る。ほの暗い深みを抱えながら、一人、よたよたと歩いてゆく妊婦としての少女は、都会（＝ひ弱な男？）に対する土俗（＝逞しい女？）の勝利のアレゴリーともなっているだろう。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>映画・テレビ</dc:subject>

<dc:creator>こうめい</dc:creator>
<dc:date>2009-11-11T18:39:53+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://soredou.cocolog-nifty.com/soredou/2009/11/post-e429.html">
<title>『サード』</title>
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<description>『サード』（1978年）を観た。東陽一監督。出演は永島敏行、森下愛子ほか。少年院...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;『サード』（1978年）を観た。東陽一監督。出演は永島敏行、森下愛子ほか。少年院が舞台の、そこはかとなく暗い青春映画。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;主人公は「サード」というアダ名の陰気な少年である。個性的な他の少年たちとの少年院生活と、少年院送りになるまえの、少女売春の仲介役をしていた頃のエピソードとが、かわるがわる描かれる。同級生の少女とパートナーを組み、自分が街行く男に声をかけ、少女に売春をさせるという手で金を集めていた主人公。あるときヤクザ者の客がしつこく、成り行きでついその男の頭を鈍器で殴って殺してしまう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そうして少年院に送致された主人公は、集団生活になじめず、いつも一人、壁をじっとみてうつむいている。頑固な田舎っぽさを濃厚に感じさせる、重く静かな表情。何かを考えているようでもあり、何も考えていないようでもある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「サード」とは、野球のサードをしていたことからきたアダ名だが、この少年の憂鬱さは、じじつ、ひたすらの待機と循環を本質とする野球というスポーツの憂鬱さにつうじている。だだっ広いグラウンドで、自分のところにボールが飛んでくるのをただただ待ち受けている野手の憂鬱さ。あるいはベースを何度も何度も周回し、元の場所に戻ってくるだけの行為を繰り返すことの憂鬱さ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「サード」は少女が売春をしているあいだ、手持ちぶさたになり、建物の外の空き地でピッチングの真似を反復していた。また少年院のなかで唯一主人公が好んでおこなうのが、グラウンドをひたすら周回するマラソンの練習である。何ものかを待ちながら同じ動きを黙々と反復する――その身振りは憂鬱さの解消法であり、同時にその表現でもある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;憂鬱なまなざしは、曖昧な過去へと向かう。売春パートナーの少女との、恋愛とも友情ともつかぬ関係性。そこにぼんやりと固着する何ものかがある。そこには現在の状態、いま少年院のなかにいることの意味のヒントが見え隠れしているようだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「サード」はとくに少年院の《外》を夢見るわけではない。少年院の《外》にもまた社会という閉域があるだけだ。唯一、何かがありそうだと「サード」が期待するのは、祭りの喧噪である。少年院に送致されるタクシーのなかからみた、ある港町での祭りの喧噪。そのなかに何かがあるのかもしれないとぼんやり思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;黙々と少年院のグラウンドを周回する「サード」。その脳裏にひらめく祭りの喧噪のイメージ。取り戻すべきものもとくにない。怒りの対象もとくにない。疎外から立ち戻るべき本質などもない。けれども現状は息苦しい。どこかに何か救いがあるのかもしれないが、それは曖昧なイメージとしてしか像を結ばない。そうした七〇年代的な閉塞感が全体に漂っている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そうした七〇年代的な閉塞感は、しかし、管理された少年院という、それ自体は分かりやすい比喩のもとで描かれており、この比喩の分かりやすさという点だけでも、ある意味で七〇年代は幸福だったのかもしれない。無数の選択肢があり、見た目には解放されていながら、どこにも行き着けない二〇〇〇年代の閉塞感は、少年院という安易な比喩を許さない。その適切な比喩をすら見つけることが出来ていない点で、現在の乾いた閉塞感は、よりいっそう救いがたいのかもしれない。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>映画・テレビ</dc:subject>

<dc:creator>こうめい</dc:creator>
<dc:date>2009-11-10T21:29:03+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://soredou.cocolog-nifty.com/soredou/2009/08/post-dfcd.html">
<title>『あばよダチ公』</title>
<link>http://soredou.cocolog-nifty.com/soredou/2009/08/post-dfcd.html</link>
<description>『あばよダチ公』（1974年）を観た。澤田幸弘監督。主演は松田優作。青春アクショ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;『あばよダチ公』（1974年）を観た。澤田幸弘監督。主演は松田優作。青春アクションもの。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ムショ帰りの主人公と、その悪友たちのあわせて四人が、ひともうけを企んでいたところ、ふとやってきた女の話をきっかけに、ダム工事で水没する家への補償金をねらう計画を立てる。主人公が、その家で立ち退き拒否をしている男の娘と偽装結婚をして、土地の権利書をうばい、仲間みんなで家に立てこもって、行政側が交渉してくるのを待とうという作戦である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;一方、行政側と警察はヤクザまがいの土建屋に、荒っぽい手を使ってでも彼らを立ち退かせるよう依頼する。土建屋は彼ら仲間の一人をおびき出し、それをエサにやってきた仲間たちをこてんぱんにしてしまう。若者四人はいったんは引き上げようとするのだが、不意に思い直し、土建屋の金を奪おうとする…。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;若者ならではの行き当たりばったりな無計画さと、とにかくヤリたいという真っ直ぐな性欲が、単純明快な若者像をつくりあげてはいるのだが、青春アクションものの爽快感はあまりなく、どこかしら暗さというか、じめっとした空気がともなっているのが気にかかる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;たとえば、金がなく、仕事も面白くなく、女もいない、と互いに文句を交わしあい、ともかくみんなで酒を飲んで雑魚寝をする、狭いアパートの部屋の様子。あるいはまた、土建屋を襲おうと思い直すときに、主人公の脳裏にフラッシュバックされる、母親と姉が不機嫌そうな顔をし、姉の子供が泣きわめく貧しい実家の様子。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;誰もが疲れており、貧しく、救いがない。彼らの無鉄砲な計画は、いらいらとして、淀んだ空気を吹き飛ばすための逆転の一撃として、そもそもが無鉄砲であることを目的として立てられたようでもある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;最後あたりの一連のシーン。土建屋に警官隊がやってきて、完全に包囲されてしまう。彼ら仲間はバリケードをつくって立てこもるのだが、催涙弾を投げ込まれ、絶体絶命のピンチにおちいる。逮捕されて終わりかと思いきや、結末はかなりトンデモなオチ。まずは奪った紙幣を一枚一枚、みんなで飲み込む。それから土建屋の建物を壊そうとするクレーン車の錘にみんなでしがみつき、まんまと脱出に成功するのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;このトンデモさはご都合主義であって、馬鹿馬鹿しい、とただ笑ってもらうことを狙ってはいるのだろう。たしかにコミカルに描かれてはいる。だがしかし、やはり痛快な笑いに落とすことができず、むしろ狂気じみたいらいら感が、このオチにもついて回っている。紙幣を飲み込むシーンがいやに長いのも、こうした印象を強める。真顔で、むせそうになりながら、ひたすら紙幣を口に詰め込む四人の男。ありえない設定でありながら、笑えないリアルがそこに表現されている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;60年代の政治の季節が終わり、石油ショックを迎えたあとの日本社会の、そこはかとない暗さといらいら感を観察するには、よい材料であると思う。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>映画・テレビ</dc:subject>

<dc:creator>こうめい</dc:creator>
<dc:date>2009-08-27T12:05:42+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://soredou.cocolog-nifty.com/soredou/2009/08/post-390f.html">
<title>『四畳半襖の裏張り　しのび肌』</title>
<link>http://soredou.cocolog-nifty.com/soredou/2009/08/post-390f.html</link>
<description>『四畳半襖の裏張り　しのび肌』（1974年）を観た。神代辰巳監督。昭和初期の色街...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;『四畳半襖の裏張り　しのび肌』（1974年）を観た。神代辰巳監督。昭和初期の色街。性に早熟な少年を中心に、芸者や周辺の人びとの性的生活の諸相を描く。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;関東大震災の日に、ある芸者が、旦那をめぐってライバルとなっていた女から赤ん坊をさらってくる。芸者に育てられた赤ん坊はやがて少年となるのだが、寝ている上の階では母親が客をとり、襖を開けた横の部屋には他の芸者がいるという環境で育ったがゆえ、少年は知らぬうちに早熟な性の練達者となっている。少年は男女を問わず、誰彼かまわず手を出してゆく。手を出された方は、その手練手管にすぐにまいってしまう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;不思議なのは、この少年のたたずまいである。痩せぎすの体に、のっぺりとした中性的顔つき。とくに美しくも不細工でもなく、個々のパーツが小さい、平べったい表面といった感じの顔つきである。表情に乏しく、内面や主体性というものを読み取れない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;性にまつわる行動も、奪うとか襲うとかいった男性的強引さよりも、按摩をしてあげようといって、泊めてもらっている映写技師の夫婦の夫のほうに手を出すなど、隙をみつけては滑り込むように性交渉の関係に入る。衝動に駆られる、というのとも違う。どちらかといえば惰性に近い。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;少年は太鼓もちがお気に入りで、つねに猥歌を口ずさんでいる。歌をうたいながら、母親のところに来た男の世話をしたり、映画館にかよったりしている。本能で動く動物でもなく、主体性や内面で動く人間でもない、ある場所に棲みつく妖怪のような存在である。河童や座敷童のごとく、とくに害はなく、ただ歌を口ずさみ、性的交渉の機会とみればすぐに手を出すという習性をもつ、そんな妖怪。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;厚みや深みのない、妖怪じみた少年ののっぺりとした存在感が醸し出す、独特のセクシュアルな感覚があとを引く映画である。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>映画・テレビ</dc:subject>

<dc:creator>こうめい</dc:creator>
<dc:date>2009-08-16T08:36:46+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://soredou.cocolog-nifty.com/soredou/2008/12/post-5dd0.html">
<title>『男の怒りをぶちまけろ』</title>
<link>http://soredou.cocolog-nifty.com/soredou/2008/12/post-5dd0.html</link>
<description>『男の怒りをぶちまけろ』（1960年）を観た。松尾昭典監督。出演は赤木圭一郎、浅...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;『男の怒りをぶちまけろ』（1960年）を観た。松尾昭典監督。出演は赤木圭一郎、浅丘ルリ子、二谷英明、その他。新聞記者の青年が、ふとしたきっかけで巨大ダイヤをめぐるギャングの陰謀事件に巻きこまれ、危険をすり抜けながら事件の真相に迫ってゆくアクション活劇。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ヒーローたる正義感あふれる好青年、ギャング団とその背後の黒幕、敵とも味方ともつかぬ両義的な女、これまたギャングと通じた危険な「事件屋」（新聞ダネになる事件に首を突っ込んで金を儲ける仕事）の男、ヒロインたる可憐な娘、等々、定型的なキャラクターが勢ぞろい。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;巨大ダイヤを中心に、ギャング団同士が抗争を繰り広げるなか、主人公は自分を殺そうとした相手を探し出そうとし、事件屋の男は、混乱に乗じて当のダイヤをかすめとろうとする。事件の犠牲者となったトラック運転手の妹は、兄が殺された真相を探ろうと主人公に頼り、黒幕の女は、年老いた黒幕の一方的な愛玩に嫌気がさし、ついどちらつかずの行動をとってしまう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;いきなりハイジャックから始まるストーリーそのものは馬鹿馬鹿しく、真面目にとるほうが損をするくらいだが、この単純な物語の構造そのものは、なかなかバカにできない事柄を表現している。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;最後にギャング同士の壮絶な殺しあいが展開され、事件屋が死に、黒幕が死んでしまったあとで、駆けつけた警官に主人公は「これがすべての原因です」とダイヤを差し出す。だが考えてみると、むしろこの熱血正義漢たる新聞記者の存在こそが、すべての原因だったのではないか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この男が事件に紛れ込みさえしなければ、トラック運転手は「飲酒運転による事故死」として完全な偽装が成立し、片方のギャング団によるダイヤ強奪も相手方のギャング団に露見せず、すべては「うまくいった」はずなのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;下手に正義感をもって事件の真相を探ろうとした結果、多数のギャング団が抗争で死亡し、黒幕自身とその女、また事件屋も死んでしまうこととなった。最終的に正義感とともに生き残ったのは、新聞記者の青年と、犠牲者の妹のカップルだけである――いや正確に言えば、ダイヤもまた生き残ったのであった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;青年の側からみれば、すべての原因はダイヤだったのであり、ギャング団の側からみれば青年の正義感こそがすべての原因なのであった。ダイヤを中心とする馬鹿げた殺しあいなのか、それとも正義感に引きずり回されたあげくの馬鹿げた殺しあいなのか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;これはじつのところ決定不能なのであり、それがまさに裏表の関係であることを正確無比なかたちで表現している点で、単純きわまりないこの映画の物語構造は、まことに傑出しているといわなければならない。&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>こうめい</dc:creator>
<dc:date>2008-12-27T21:00:17+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://soredou.cocolog-nifty.com/soredou/2008/12/post-4dbd.html">
<title>『祇園囃子』</title>
<link>http://soredou.cocolog-nifty.com/soredou/2008/12/post-4dbd.html</link>
<description>『祇園囃子』（1953年）を観た。溝口健二監督。出演は木暮実千代、若尾文子ほか。...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;『祇園囃子』（1953年）を観た。溝口健二監督。出演は木暮実千代、若尾文子ほか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;貧しい父親を離れて、舞妓を志望して新しく茶屋に入ってきた少女に、姉のように慕われる芸妓の女が、その若気あふれる快活さに親のような眼差しを注ぎながら、一人前になるよう茶屋の世界の手ほどきをしていた。あるとき旦那を買って出た得意客の無理な要求に、少女が（文字通り）噛みついて抵抗したことにより、女は窮地に陥ってしまうことになる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;得意客の会社専務が接待しようとする役所の男に身を任せるならば、少女のことも許そうというのだが、女は、好きでもない男にそんなことをするわけにいかない、と、なかなか首を縦に振らなかったところ、業を煮やした女将が茶屋のネットワークを利用して、女に仕事が回らないようにしてしまうのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;我が身を振り返りつつ、少女のまっすぐな心情は守ってあげたい。だが仕事を奪われてしまっては生きてゆくこともできない。このジレンマに窮した女は、ついに役所の男のもとに出かけることになるのだが、少女は、そうして得たお金を汚いものとして女をなじる。口論のあとで、しかし二人は仲直りをし、祇園祭の忙しい茶屋周りに出かけてゆく――。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;男女平等という戦後民主主義的理念をまっすぐに掲げて恐れない少女と、そうした少女には見えていない茶屋や現実世界のネットワークを知りつつも、なおそれを盾にとって少女の幼さを上から断罪することには抵抗を感じてしまう女との、たんなる保護者と被保護者との関係にはとどまらない、女同士の共犯者的な関係性がうまく描かれている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;作品のなかで、男は単純なる動物として登場する。金と権力と女性をすべてわが手にしようとする動物である。得意客の専務はいわば狸であり、役所の男は蛇である。無闇に襲いかかってくる狸や、執拗に絡みついてくる蛇を、正面から叩くのではなく、なかば受け身の状態で引き受けつつ、うまく勢いを横にそらしてかわしてゆく。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;女の身体は長年のそうした訓練に鍛えられ、まるで合気道の達人のような身のこなしを会得している。少女の溌剌とした身体はといえば、まだ訓練が足らず、どうしても正面から相手を叩こうとしてしまう。だがそうした飛び跳ねがちな身体と、落ち着いた滑らかな身体とが共犯者的にチームを組むとき、無粋な動物どもには容易に組み伏せられない、力強い可能性にみちた結合体がそこに生み出されることになる。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>映画・テレビ</dc:subject>

<dc:creator>こうめい</dc:creator>
<dc:date>2008-12-25T21:30:35+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://soredou.cocolog-nifty.com/soredou/2008/10/post-71bd.html">
<title>『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』</title>
<link>http://soredou.cocolog-nifty.com/soredou/2008/10/post-71bd.html</link>
<description>『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』（2007年）を観た。出演は佐藤江梨子、永作博...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』（2007年）を観た。出演は佐藤江梨子、永作博美、佐津川愛美、永瀬正敏ほか。吉田大八監督。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;女優を目指して東京に出ていった姉が帰ってきて、気弱な妹を理不尽にいじめるのだが、妹は妹で、過去に姉をネタにホラー漫画を書いて雑誌に掲載され、姉に心の傷を与えたという負い目から、姉に反抗することもできず、ただただ忍従する。腹違いの兄もまた、姉だけを愛するという誓いを過去に立ててしまったため、あまり姉に強い態度を取ることができないでいる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そうした傍目には姉への過度な甘やかしとみえる不可解な状況を、東京からやってきた苦労人の兄嫁が戸惑いながら眺めているなかで、姉が東京に出した映画監督へのファンレターをめぐる顛末、姉による妹いじめのエスカレーション、東京から追ってきた借金取りへの対処、などなどの出来事が展開し、ついには妹による大逆転の結末を迎えるというのが話の流れ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;すべてを他人と運のせいにし、自分の非や素質のなさをまったく認めない姉の、爽快なまでの傲慢と理不尽さが、田舎を背景に圧倒的な違和的存在感をみせる、手足の長いスレンダーな容姿と妙に調和している。手足の先まで十全に統制できず、みずからを持て余しているようなサトエリの気怠げな身体が、その放恣さと裏腹にある苛立ちを、そのまま物的に表示しているようなのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;それと対照的なのが、小柄でありつつキビキビと動く兄嫁の身体である。夫の乱暴に耐え、姉の気まぐれな要求に応じ、周囲に気をめぐらして、求められた仕事を可能なかぎり効率よくこなすことで、自分の居場所をようやく確保できると信じる兄嫁は、つねに背筋を伸ばして姿勢よく、さっと立ち上がり、座り、用事に走ってゆく。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;兄のほうは痩せ形ながら動作が緩慢なのだが、そこには、一家を背負い、過去を背負い、運命を背負っている男の寡黙な屈託が、あますところなく体現されている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そしてマンガを唯一の趣味とする妹だが、姉の目を避けるよう、首をすくめ、肩をすぼめ、背を丸くして机にかがみ込む姿は、姉の非道な仕打ちに耐えながらも、そこに避けがたい魅力を認めて、悪いと思いつつもついマンガに仕立ててしまう、暗い欲望を抱え込んで育てる親鳥のようでもある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;というわけでこの映画は、統制できない放恣な身体、仕事をこなす機敏な身体、重荷を負う緩慢な身体、そして暗い欲望を抱える縮んだ身体、という、四つの身体が互いに重なり、衝突し、触れあい、共振し、あるいはすれ違う物語として読むことができる。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>映画・テレビ</dc:subject>

<dc:creator>こうめい</dc:creator>
<dc:date>2008-10-20T22:47:24+09:00</dc:date>
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<title>『日本のいちばん長い日』</title>
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<description>『日本のいちばん長い日』（1967年）を観た。岡本喜八監督。出演は笠智衆、三船敏...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;『日本のいちばん長い日』（1967年）を観た。岡本喜八監督。出演は笠智衆、三船敏郎、黒沢年男など。御前会議でのポツダム宣言受諾の決定から、終戦の詔をラジオ放送するまでの一日半に起きた、詔の文案検討、玉音の録音、近衛師団の決起、陸軍大臣の切腹、等々の一連の出来事をめぐるドキュメンタリー調ドラマ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;主題はいろいろと読み込めるだろうけれども、そのひとつに、歴史的決定というものが、偶然的なバランスのもとで、危うい均衡点として成立するにすぎない、という主題がある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ものごとが決定されるということは瞬間的な出来事ではありえず、その前には交渉と沈黙と疲労の長々しいプロセスがあり、またひとたび決定されたのちも、すぐに安心と平穏と回復の時間が訪れるわけではなく、一方では煩雑な儀式と手続きがあり、他方では決定の事実を引き延ばし、あるいは暴力的に覆そうとする動きが絶えず生じてくる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そのようにして結局のところ、何かが決定されたということは、大小の偶然を含むすべての因果連関が収束して、長い時間が経過したあとの事後的な視点から、結果論として描き出されるほかはないのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;なされるべき決定の重大性と、そのプロセスの卑小さとのコントラストが強く描き出される。詔書の文言をめぐっては、陸軍の面子をかけて「戦局必ずしも好転せず」としたい陸軍大臣と、それを欺瞞だとする海軍が互いに一歩も引かずに議論が膠着する。文書ができたあとも、それを清書して、御名御璽を得て、さらに内閣全員が署名をするという手続きの必要から、なかなか連合国側に受諾文書の打電ができない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;いつつぎなる原子爆弾が投下され、百万の連合国部隊が上陸し、あるいはソ連軍が大陸からなだれ込んでくるかわからない、そうした数十万の人命が左右される切羽詰まった状況にあって、躓きの石となるのが、訳語の解釈、面子を立てる立てない、清書を間違える、署名を渋る、といった卑小な事柄なのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;だがこのように「卑小さ」を描くことは、かならずしも戦前・戦中期の日本の指導層における非合理性を指弾するという意味合いをもってはいない。もちろんそうした面もあるのだが、しかし、その重大さと卑小さのコントラストを強調するなかに、どこかしらユーモアの感覚が仕込まれており、そのユーモアの視線において、そうした情けない人間の振る舞いを、ある意味で寛容に受け入れるような「視点」が確保されている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;その感覚は、クーデターを起こして戦争継続を訴えようとする青年将校たちが、必死になって捜索するのが、玉音を録音したレコードという端的な「モノ」であるという点にもあらわれているだろう。ここには、戦後民主主義という絶対的な「正しい」地点から、戦前・戦中の指導層や青年将校たちを、一方的に「間違った」者として断罪するという、ありがちな、わかりやすい構図に収まりきらない何ものかがある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;二度と戦争を繰り返してはならない、という強いメッセージを前面に掲げつつも、むしろユーモアの感覚を媒介に、現在の日本人をも、当時と同じ地点に引き戻しつつ、大人が子供の過ちを受け入れるような仕方で、等しく抱擁するような「視点」がどこかに保持されている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;岡本喜八の批判的視点は、このユーモアの感覚と切り離すことができない。批判をしている自分の立ち位置そのものをも相対化するような、ある超越的な「視点」を確保することで、その批判の力は局地的な相対性を脱し、普遍性へと高められているのである。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>映画・テレビ</dc:subject>

<dc:creator>こうめい</dc:creator>
<dc:date>2008-08-12T03:49:48+09:00</dc:date>
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<title>『地上５センチの恋心』</title>
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<description>『地上５センチの恋心』（2007年）を観た。エリック＝エマニュエル・シュミット監...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;『地上５センチの恋心』（2007年）を観た。エリック＝エマニュエル・シュミット監督。出演はカトリーヌ・フロ、アルベール・デュポンテルなど。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;デパートの化粧品売り場ではたらくオデットの唯一の楽しみは、ロマンス小説を読むこと。作者バルタザールのサイン会で、オデットは思いを込めた手紙を彼に渡す。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;バルタザールは新作を批評家に酷評され、しかも妻が浮気をしていることを知り、すっかり落ち込んでいたところ、ふとオデットの手紙を読み、自分という存在を全面的に愛してくれる読者がいることに感動し、すぐさまオデットの住処にまでやってくる。憧れの作家が自分を頼ってきたことに戸惑いながらも、オデットはバルタザールを受け入れ、持ち前のバイタリティで彼を癒してゆく……。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;名声と才能と金銭という、すべてを持ち合わせていながらも、真の愛に飢えている男と、平々凡々の生活を送りながらも、真に人を愛することのできる女。このモティーフを支えているのは、わりと陳腐な二分法的紋切り型である。上流階級の空虚な「みせかけ」の生活と、大衆の歓びあふれる「ほんもの」の生活。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「みせかけ」を壊された男が、「ほんもの」のバイタリティをもつ女に触れ、生命力を賦活されて、再び「みせかけ」の世界で生きてゆく力をえる。これは神話的な再生の物語であるといってよい。オデットは巫女のごとく元気に歌い、かつ踊る。歌と踊りという、この映画のミュージカル的要素は、まさに再生の神話的儀礼に不可欠な要素にほかならない。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>映画・テレビ</dc:subject>

<dc:creator>こうめい</dc:creator>
<dc:date>2008-05-27T02:12:46+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://soredou.cocolog-nifty.com/soredou/2008/03/post_c94a.html">
<title>『ジャージの二人』</title>
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<description>長嶋有という人の小説『ジャージの二人』をふと本屋で手にとり、酒を飲みながら読んだ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;長嶋有という人の小説『ジャージの二人』をふと本屋で手にとり、酒を飲みながら読んだ。この人は映画になった『サイドカーに犬』の原作者で、この映画を以前に観ていたことから、少し気になっていたのだ。何気ない日常の、すぐに浮かんでは消えるようなユルい屈託を、上手に嫌みなく描いている、そこそこに面白い小説。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ユルい屈託とは、たとえばこういうシーンにあらわれている。主人公の男が父親と軽井沢の別荘にいき、関係が微妙になっている奥さんと電話で話しているときに、相手から「充実してるのかあ」と聞かれて、「ちがうよ。『充実』をしてるんだよ」と、ややむきになって強調するシーン。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;即自的に充実しているのではなく、対自的に充実という状態をつくりだすべく意識的に努力をしている、というわけである。いいかえれば、日々を無防備に過ごすなかで、勝手に充実した状態が自分のもとにやってきて、そうした満足の状態を自分は受動的に引き受け、ああ、充実していることだなあ、と、だらしなく感慨を漏らしている自分がいる、そうした自己のありよう、ないしは、そうした自己を誇示的に表明するような自己のありようを、相手にたいして否定しているのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;自分としては、そのように相手の心情を慮らずに、自分の満足状態をそれこそ満足げに披瀝するような、恥知らずの自分なのではなく、むしろ別荘での休日という状況からいくぶんシニカルな距離をとりつつ、いわば夏の休暇「ごっこ」を営み、そのなかで充実「ごっこ」をしているのだという、この屈託。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;充実した状態には没頭しきれないことを自覚しつつ、ということはすなわち、目指している状態には最終的に到達しえないことを十分に自覚しつつも、あえてその振るまいのもとにみずからを置いてみる、そうした一種の実験的行為をしているのだという位置取りに示されているような屈託を、主人公は「充実をしている」という言い方の「を」という語のうちにこめているのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;しかし、そうした屈託を屈託として強調するその当の振るまいこそが、妻を相手に、屈託を屈託なく示そうとする当初の目的を裏切ってしまっているところに、主人公のダメさ加減が遺憾なくあらわれており、そうした地味でありつつもじわりと効いてくるダメさの描写が、この作者はとても上手だと思うのである。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>書籍・雑誌</dc:subject>

<dc:creator>こうめい</dc:creator>
<dc:date>2008-03-13T01:10:00+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://soredou.cocolog-nifty.com/soredou/2008/02/post_4a1b.html">
<title>『チーム・バチスタの栄光』</title>
<link>http://soredou.cocolog-nifty.com/soredou/2008/02/post_4a1b.html</link>
<description>『チーム・バチスタの栄光』（2008年）を観る。中村義洋監督。出演は、竹内結子、...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;『チーム・バチスタの栄光』（2008年）を観る。中村義洋監督。出演は、竹内結子、阿部寛、吉川晃司、池内博之など。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;心臓のバチスタ手術という、難度の高い手術を幾度も成功させてきたチームが、ここ三度ほど、つづけて患者を死亡させてしまった。チームを率いる天才外科医・桐生（吉川晃司）は、チーム内に、意図的に患者を殺した犯人がいるかもしれないという疑いを抱き、院長に調査を依頼する。そこでなかば偶然のきっかけから、院長からの命をうけて、通称「グチ外来」の医師・田口公子（竹内結子）が捜査に着手するのだが……。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;とまあ、いちおうはミステリ仕立ての話なのだけれど、どうも制作側のやりたいことが分裂している感じがして、作品としてのパンチが弱いというのが第一印象。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;つまり、医療現場を舞台とした犯人捜しの本格ミステリにしたいのか、阿部寛や山口良一といったキャラを活かしたドタバタ喜劇風にしたいのか、あるいは患者とのしみじみとした交流をあつかうヒューマンドラマにしたいのか、等々、いろんな方向性が、基本軸を決めないままにだらだらと詰め合わされているため、個別的には見所があるものの、総体としては、何がしたかったのか分からず、ぼんやりとした印象しかもてなかったのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;とくに阿部寛という濃いキャラを不用意に持ちこんだために、竹内結子の上品な薄味がすっかりとんでしまっている点が残念であった。ストーリーの展開上からしても、厚労省の豪腕官僚が外部からやってきて、わけのわからないバイタリティと分析力をもって、勝手に事件を解決してしまうというのは、いかにも乱暴ではないか。これでは竹内結子がいてもいなくても同じである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;たとえば、阿部寛のガツガツとしたマスキュリンな捜査が見落とす部分を、フェミニンな竹内結子が重要な鍵として拾いあげてみせるとか、あるいは、もう少しひねるなら、阿部寛が不意にみせる弱い部分に、竹内結子の意外に強靱な押しの一手が絡まり、解決の糸口が見出されるとか、そういう何らかの逆説的な運動があれば、ストーリー上のカタルシスが得られるのだけれども。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;また最後に明らかになる犯人が、ただのサイコさんだったというのも不満なところ。一見謎めいてはいるが、じつは合理的な動機が準備されていたり、あとで納得のいく伏線が周到に張ってあったりするわけではなく、ただ「おかしい人だった」というのでは、いかにも推理の甲斐がない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;まあ、現実の社会に起きている事件そのものが、人格や精神の「おかしい人だった」ということで説明されてしまう状況があるので、その点では、こういう身も蓋もないプロットのほうが、むしろ現実を忠実に反映しているのかもしれないが。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>映画・テレビ</dc:subject>

<dc:creator>こうめい</dc:creator>
<dc:date>2008-02-10T20:37:32+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://soredou.cocolog-nifty.com/soredou/2008/02/l_change_the_wo_0fec.html">
<title>『L change the WorLd』</title>
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<description>『L change the WorLd』（2008年）を観た。中田秀夫監督。主演...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;『L change the WorLd』（2008年）を観た。中田秀夫監督。主演は松山ケンイチ。なんだか、生物兵器としてのウィルスとか、地球環境を守るために人類を減らそうとする計画とか、タイでのロケとか、そういうのはどうでもよく、要は、Ｌ萌えのためのプロモーションビデオであった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;言い換えれば、本編でのクールなＬを、いろんなシチュエーションにおいて遊んでみた、というもの。苦手な子どもを絡ませてみたり、秋葉原のメイドカフェに連れていってみたり、自転車に乗せてみたり、背筋を伸ばさせてみたり、等々、Ｌ萌えの方々の欲望を、ごくだらしなく、ひとつひとつ実現させてみたというだけの話。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;スピンオフにはたぶん二種類あって、ひとつは本編の世界観から派生する別種の物語を描くことにより、本編の世界観そのものに深みをあたえるもの。もうひとつは、本編の世界観からは切り離された地平にキャラだけを抽出してきて、いろいろなシチュエーションを組み合わせ、本編との落差を楽しませるもの。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;本編との関係という面では、前者は補完的かつ批評的であるのにたいし、後者は依存的かつ没批評的。この分類からいえば、本作品は後者にあたるだろう。物語などどうでもよいという、同人誌的なノリを、こういうふうにベタになぞるのもよいが、もう少し批評的な視点があってもよいかと思った。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>映画・テレビ</dc:subject>

<dc:creator>こうめい</dc:creator>
<dc:date>2008-02-10T13:11:10+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://soredou.cocolog-nifty.com/soredou/2008/02/post_4259.html">
<title>『ユビサキから世界を』</title>
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<description>『ユビサキから世界を』（2006年）を観る。行定勲監督。出演は、谷村美月、北乃き...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;『ユビサキから世界を』（2006年）を観る。行定勲監督。出演は、谷村美月、北乃きい、ほか。くだらない日常がだらだら続き、輝かしい未来像も描けないなかで、どっちでもいいから、じゃあ死のうか、というノリで、集団自殺をこころみる女子高生四人の話。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;四人が抱いているのは、けっして絶望ではない。絶望というのは、希望がまずあって、それが、ある社会的な壁によって、どうしようもなく絶たれてしまうところに生じるのだが、四人の場合には、そもそも希望じたいがあらかじめ吸い取られており、したがって反抗すべき壁はない。そこに現代の独特の困難がある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「生きがい」のない社会は、そのまま「死にがい」のない社会であって、つまりは自殺にさえロクな意味づけができない時代の、名づけえぬ閉塞感と、ぎりぎりの希望を描きだそうとしている映画だといえる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;だが、それがどうもうまく描き切れていない印象。これは、誰か特定の人物に起因するものではない閉塞感を、映画のストーリー上、誰かのせいにせざるをえない点に、ひとつの無理があるのかもしれない。嫌味な先生のせいだったり、浮気をする親のせいだったり、そういう分かりやすい描き方をした時点で、嘘がまぎれこむ気がする。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;また、希望をみいだす契機にしても、おじいさんの乗った飛行機の墜落というのは、ちょっと納得がいかない。内的な煮詰まりの打開は外的な偶然によるしかない、というのは分かるが、その偶然が、どこかで内的な煮詰まりと結びついている必要があり、そのへんのつながりを、短い尺の映画のなかで描き切れていない感じがする。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;たとえば、ソフィア・コッポラ監督の『ヴァージン・スーサイズ』などは、アメリカ郊外の閉塞感のなかで、自殺へと向かう少女たちの虚無的な心理を、外側＝男の子視点から、あくまでも謎として描いて成功しているのだが、それを、あえて少女たちの心理の内側から描こうとしたところに、行定監督のチャレンジ精神が認められる。だけれども、監督の類い希な日常描写力をもってしても、やはりこの課題を描ききるのは難しかったように思う。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>映画・テレビ</dc:subject>

<dc:creator>こうめい</dc:creator>
<dc:date>2008-02-06T13:30:07+09:00</dc:date>
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<title>『スウィーニー・トッド』</title>
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<description>『スウィーニー・トッド』（2007年）を観る。ティム・バートン監督。出演はジョニ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;『スウィーニー・トッド』（2007年）を観る。ティム・バートン監督。出演はジョニー・デップ、ヘレナ・ボナム＝カーターほか。無実の罪で入獄させられた理髪師が、自分を陥れた判事に復讐をする機会をうかがいながら、ミートパイ屋の女と手を組んで、二階に殺人理髪店、一階に人肉ミートパイ屋を営むという、まあ、ひどい話。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;けれどもバートン的世界のミュージカルという趣向がまずありきなので、ストーリーの妙はさほど期待すべきではないのかも。細部まで作りこんだ世界観の構築という点では、まず満足点。ヴィクトリア朝ロンドンの、寒さ、暗さ、ドブくさい臭い、ぬめぬめ感が、触覚レベルで感じられる映像はさすがである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;それにしても、バートン監督といえば、シザーハンズやナイトメア・ビフォー・クリスマスなど、グロい表現と同居する異形のものの悲しみや、無器用な愛情といったモティーフが、人気の秘密だったと思うのだが、今回はグロ全開のまま、最後にほとんど主要人物の全員が死んでしまって、まったく救いがない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ミートパイ屋の女が途中で夢みる、南国での安逸な日々というシーンが、わずかなユートピア的要素だったか。強い日射しのなかでの、白塗りジョニー・デップの居心地の悪そうな佇まいがよかった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;だけども要は、ティム・バートンが、殺人理髪店と人肉ミートパイという組み合わせを気に入って、あと、ガクンと死体を落っことすメカニックな椅子を作りたかっただけなのかもしれない。メカ好きだし。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>映画・テレビ</dc:subject>

<dc:creator>こうめい</dc:creator>
<dc:date>2008-02-06T12:35:27+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://soredou.cocolog-nifty.com/soredou/2007/12/post_61a5.html">
<title>『さよならみどりちゃん』</title>
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<description>『さよならみどりちゃん』（2004年）を観る。古厩智之監督。出演は星野真里、西島...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;『さよならみどりちゃん』（2004年）を観る。古厩智之監督。出演は星野真里、西島秀俊など。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;だらしなく複数の女とつきあう、自分勝手なユタカに、ひたすら惚れてしまう女の子「ゆうこ」の話。はじめて一緒に寝たときに、じつは彼女がいるとあっさりユタカに告げられるところから、物語ははじまる。彼女の名前は「みどり」で、いまは沖縄にいるという。その時点から「ゆうこ」は、ユタカの勝手さに、一方的に振り回されることになる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ユタカが勤めるカフェの近くにあるスナックに、バイトにはいることを相談もなく決められる、というのは序の口。新入りのバイトとすぐに寝ようとするわ、そのバイトのいるまえで、元カノと店のなかで酒を飲み、仕事を途中でほっぽらかして消えてしまうわ、しまいには「ゆうこ」に「ソープで働け」などというわ、まあ、勝手放題。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;だけれどもそういうユタカに、主人公は執着してしまう。ユタカの店の、優しいバイト君と寝てみたりするが、やはり自分勝手なユタカが、どうしても忘れられない。一方、バイト先のスナックでは、当初は慣れなかったものの、しだいに酔っぱらいの扱いもうまくなり、ホステスとして一人前になってゆく「ゆうこ」。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;客がカラオケを歌う、スナックでの擬似的な共同性。何を考えているかわからぬ男への、報われぬ愛。この二つのラインをもとに、物語はすすむ。「音痴」を理由に人前で歌えないことと、ユタカへの愛を告白できないことが、重なりあう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;あるとき、二つの場所に二人の「みどり」ちゃんがあらわれる。スナックには新入りとして、偶然にも同名の「みどり」ちゃんが。他方、ユタカのもとにも、本命の彼女である「みどり」ちゃんが帰ってくる。ここで二人の「みどり」ちゃんは、主人公にとって、自分の影のような存在である。かたや、スナックでの自分のポジションを脅かす存在として。そしてかたや、自分がめざしている、ユタカの愛を独占するポジションにいる存在として。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;じつのところ、主人公がユタカに執着しているのは、この見知らぬライバルたる「みどり」に嫉妬しているためだ、ともいえる。ユタカは「みどり」の方だけを向き、自分を振り返ってくれない。見果てぬ目標としての「みどり」は、いわば亡霊として「ゆうこ」につきまとう。追いかけてくる「みどり」におびやかされつつ、見知らぬ「みどり」を追いかける「ゆうこ」。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;沖縄から「みどり」がユタカのもとに帰ってきていることを、「ゆうこ」はスナックのママから聞かされる。スナックを出ると、ちょうどユタカが店を出てきて、「みどり」と一緒にタクシーに乗りこむところであった。二人の乗ったタクシーを、「ゆうこ」はひたすら走って追いかける。だが、追いつくことはできず、ついに「みどり」の顔を確認することはできない。朝方、疲れ切った主人公がアパートに帰ってくると、そこにユタカが待っていた。ユタカは「みどり」と別れたという。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;部屋にはいると、「ゆうこ」はユタカにむかって、すぐにセックスをしようという。それまで、抱かれると「溶けてしまう」存在であった「ゆうこ」は、そのときはじめて、溶けることのない、実質のある存在となったのを感じる。「ゆうこ」は亡霊である「みどり」を振りはらい、自分を取り戻したのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;だけれども、あなたも私を好きになってほしいという「ゆうこ」の言葉に、ユタカは答えず、出ていってしまう。ユタカは目の前の、自分をまっすぐにみつめる「ゆうこ」の存在に堪えられなかったのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ユタカはそもそも、遠くに去ってしまった彼女や、元カノ、バイトの新人、等々の、自分にまっすぐに向かってこない相手だけに、安心してその場かぎりの愛情を向けられる人間であり、自分勝手な言動は、その臆病さの裏返しにほかならない。自分をまっすぐに愛そうとする女には、つい無理な要求をしたり、粗暴にふるまったりして、はぐらかしてしまうのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「ゆうこ」が影の存在である「みどり」に嫉妬をしているかぎりにおいて、その三角関係に媒介されているかぎりにおいて、ユタカにとって「ゆうこ」は安全な存在であった。だが幻想を振りはらった「ゆうこ」が、リアルな存在として、目の前に立ちあらわれたとき、ユタカはそれを正面から受けとめることに躊躇する。ユタカは、一対一の関係でせまってくる、リアルな女に、むしろ怯えてしまうのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;興味深いことに、このリアルさにたいするユタカの主観的恐怖は、スクリーン上の「ゆうこ」の裸の撮影の仕方という点で、観客としての私たちにも間接的に示される。それまでは部分的にシーツで隠され、いくぶんか観る者に幻想的な美しさをあたえていた「ゆうこ」の姿は、さいごのシーンではフルヌードとして映しだされる。乳房をあらわにし、しかも逆光のなかで、陰影をともなったリアルな身体性がさらされるのである。この、ヴェールなしの、生々しい女の身体に、ユタカは背を向ける。媒介抜きのリアルに、ユタカは耐えられないのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ユタカに去られた「ゆうこ」はしかし、リアルな存在の回復をきっかけに、あらたな一歩を踏みだすだろう。カラオケスナックの擬似的共同体のなかで、はじめて人前で歌うユーミンの歌「14番目の月」にのせて、その一歩は踏みだされるのである。&lt;/p&gt;</content:encoded>


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<dc:creator>こうめい</dc:creator>
<dc:date>2007-12-03T22:09:09+09:00</dc:date>
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